People In The Box「翻訳機」雑記――せめぎ合う孤独と、「繋がり」について

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今、友人からの便りを経て、わたしは筆を執っている。便りとは不思議だ。届いたのは単なるLINEのいちメッセージに過ぎないのに、まるで何万年もの時を経てそれが届いたように思える瞬間がある。それはきっと、わたしにつきまとう孤独のせいだろう。

今、わたしは、今ある人々との繋がりと、失ってしまった彼ら/彼女ら(あるいは彼人ら)との繋がりに思いを馳せながらキーボードを叩く。

People In The Box「翻訳機」は、吹き抜けるようなピアノリフと、ごうごうと身体を押す波浪のようなベースリフが印象的な一曲だ。爽やかに流れるアンサンブルに乗せて、波多野裕文は歌う。

ぼくはきみの翻訳機になって

世界を飛びまわってみたい

People In The Box「翻訳機」

翻訳、とはなんだろう。言語から別の言語へ、あるいは非言語から言語へと変換する行為は、ともすれば原点にあった繊細なニュアンスを捨象してしまうものだ。しかし、「世界を飛びまわってみたい」というフレーズからもあるように、その翻訳は多くの人々へその原点をひらく行為でもある。Aメロで波多野は歌う。

ぼくはきみの気高さを掲げ

恥じ入る彼らを見てみたい

どこにだって友達はいるよ

誰もぼくらを知らないけど

People In The Box「翻訳機」

波多野は「きみ」の意思を人々に伝えようとする。個人の持っていた高潔さを彼らに見せ、社会、あるいはほかの個人との繋がりを作ろうとするのだ。それまで「ぼくら」にはなかった公共圏との繋がり、誰にも知られなかった「ぼくら」の個人史を、波多野は歌う。

あのひとごみのなかから

きみのうまれた街を繋ぐ

歌を誰が歌うのさ

静けさが息を荒げる

電話の向こうで

People In The Box「翻訳機」

雑多とし、全てが抽象化された「ひとごみ」という社会の縮図と、個人の歴史が集約された「きみのうまれた街」を、波多野はひと繋ぎにしようとする。それは「ぼく」がしなければ、誰にも知られることはなく、茫漠とした歴史の闇に消えていくからだ。しかし、伝えるべき「きみ」はどこへ行ったのだろうか。「きみ」は「ぼく」だけに歴史を残し、電話は繋がらない。

世界中によくある話は

剥製のように呼吸がない

かつてきみは愛した機械で

命を吹き込もうとしたけれど

誰も耳を貸しはしない

People In The Box「翻訳機」

続く2番のAメロでは、かつて「きみ」がそばにいた頃を述懐している。社会=公共圏に偏在するストーリーは、社会規範に沿った翻訳が行われ、個人の歴史や語りを漂白し、きれいな“剥製”として展示されている。誰もが共感できるように設えられたストーリーは、連綿と紡がれるナラティブではなく、ある一場面だけを切り取られ、その実だれも共感し得ない。

そんな中、「きみ」はそのストーリーを語り直し、その視座を個人のものに戻そうとした。「愛した機械」は、ShureのSM58かもしれないし、フェンダー・テレキャスターかもしれないし、あるいはカセットステレオかもしれない。いずれにせよ、「きみ」は社会に届きうるメディアを利用して、個人の語りを紡ごうとした。しかし社会一般、つまりマジョリティやその規範構造にとっては、個人の語りは必要のないものだった。

きみはどこへ行ったの

言葉だけ残して

きみはどこへ消えたの

風だけおこして

きみはどこへ行ったの

People In The Box「翻訳機」

語りだけを残して、「きみ」は消えてしまった。それは誰にも顧みられることはなく、結局「きみ」のいた証拠を知るのは「ぼく」だけだ。「ぼく」は一人になってしまった。消えてしまった「きみ」を探して、「ぼく」は孤独にさまよい続ける。

しかし、「ぼく」には「きみ」の記憶が残されているはずだ。繰り返し波多野は、「きみのうまれた街を繋ぐ」と歌う。それは、「個人によって行われる翻訳」だ。社会のためではなく、間違いなく「きみ」の語り、そして歴史を伝えるため。そして、きっとこの社会の中にいる、「友達」にバトンを繋ぐため。

ぼくが飛ばす飛行機のなか

横たわるきみの席はファーストクラス

People In The Box「翻訳機」

もういない君のために、「ぼく」は世界を飛び回る飛行機を飛ばす。きっとそれは、宛もなく飛ばす紙飛行機のように、あるいはボトルメールのように、長い時間をかけて誰かに届くだろう。そして「きみ」の語りは、「ぼくら」の友達をつくっていく。そうして得た繋がりは、規範によって揺らぐことはない。

燃料は楽しかったこと

悲しかったことのせめぎ合い

悲しみには終わりがないね

終わりがないのが悲しいのかもね

ぼくはきみの翻訳機になって

世界を飛びまわってみたい

悲しいね 悲しいね 悲しいね

ときどき 楽しいね

People In The Box「翻訳機」

最後のフレーズで、波多野はひとり歌う。たしかに、悲しみには終わりがない。悲しみは個人の一時的な情動だけでなく、常にある社会との軋轢によっても生じるものだからだ。悲しみ、そして孤独は終わることがない。

しかし、「きみ」との記憶や、人々との繋がりによってポジティブな感情も生まれうる。ポジティブなだけで生きることはできないものの、その「せめぎ合い」によって生きるエネルギーが生まれることも多い。

わたしたちはかなしく、孤独に生きる。しかし、繋がりを得ようとするせめぎ合い、その鍔迫り合いによっても、わたしたちはその一歩を踏み出すことができるのだ。いずれ出会う、まだ見ぬ友達に向けて。