春ねむりは2025年8月1日に、3rdアルバム「ekkolaptόmenos」をリリースした。前作「春火燎原」から3年ぶりのフルアルバムとなる本作は、春ねむりのルーツであるポストハードコアやハードロックの要素を残しつつ、前作でフィーチャーされたクワイヤなど、声楽的要素がより強化された一作となった。しかし、ここで響く声は「春火燎原」でも印象の強かったグロウル(叫び)ではない。聴者に呼びかけるような、確かなアジテーションを持った「チャント」だ。
そのアジテートはオープニングトラックである「anointment」から始まる。ミドルテンポの、スネアが強く響くビートと、前述したようなクワイヤが印象的な一曲だ。この印象的な構成要素は、ポップス以前の民族音楽やマーチングを想起させる。つまりこの曲は、われわれ聴者へ向けた鼓舞なのだ。このビートに乗せて、春ねむりは既存の家父長制や、それに根差した資本主義という二元論的システムに引き裂かれる個人を歌う。
家父長制は生殖や再生産を“自然な義務”と宣い、一方資本主義のシステム内では、身体は政治的イシューとして槍玉に挙げられる。身体とは、今現在の社会に適合したマジョリティにとっては全く疑う余地のないものだが、そうしたマジョリティでさえ、実はシステムの下に八つ裂きにされていることを、春ねむりは訥々と暴いていく。
我々の身体、つまりいのちを引き裂くシステム群に、「油を注ぎ、火をくべろ」と春ねむりは歌う。本曲で、アメリカ保守派の象徴である鷹の鳴き声が使われているのは痛快だ。その呼び声は愛国者のものではなく、誰のものでもないはずだった。システムの玉座には誰もおらず、空白だけがある。鷹の呼ぶ方、悪しき構造の残骸の下で、われわれは出会いなおすべきだ。
Tr.1「anointment」は引き裂かれる個人の身体を歌った一曲だったが、「ekkolaptόmenos」は全編を通してわれわれを引き裂く構造について、位相や視座を変えつつ異議申し立てを行っていく。Tr.3「panopticon」は、システムによって監視されるわれわれの反抗を歌う一曲だ。
パノプティコンとは、功利主義の哲学者ジェレミ・ベンサムが発案した刑務所の一形態。独房を円状に配置し、中央の塔に看守を置くことによって、囚人はお互いの顔が見えず、看守は姿を見せずにすべての囚人を監視することが可能となっている。囚人の監視強化と刑務作業の効率化を目論んだこの監獄は、ベンサムの言う功利主義が、構成員の非人道的管理の下に成り立っていることを言外に暴く。
パノプティコンは今現在の日本では採用されていないものの、その基本思想は現在の資本主義社会においても通底している。統一された権力による監視は、それだけでわれわれに恐怖を与える。日々、見えない看守に怯えるようにわれわれは暮らしているのだ。その陰にある明文化されていないルールやシステムは、われわれの目では捉えることができず、何に対して反抗すれば良いのかもわからない。
そんな中、春ねむりは、その塔を「覗き込め」と歌う。ブラインドの向こう側から覗く視線を、逆に覗き返せと言うのだ。塔の中に座すものは、それぞれの持つ恐怖だろう。しかしその恐怖を捉えられずとも、ただ見つめることによって、恐怖で失った反骨心を奪い返すのだ。
そしてその反骨心は、他者と共に在ることで養うことができる。本曲にSSWの諭吉佳作/menがコーラスとして参加していることは重要な示唆だ。互いの姿かたちは見えなくとも、共に歌うことでその存在を確認することはできる。互いの存在を音楽によって確認することを、「ekkolaptόmenos」は度々示している。
Tr.5「terrain vague」では、そうした見えない他者の確認を、曖昧なままで行おうとする一曲だ。Aメロの歌詞は、もともと境界線のなかった土地に線引きをする帝国主義や、曖昧だったはずの生命を二元論的に整え、最適化するこの社会を痛烈に批判している。
そうした批判の中で、春ねむりは「いま、ここにある」存在たちとそのままで触れ合おうとする。ここで「プシュケー」という多義語が繰り返し使われていることは注目すべき点だ。プシュケーは元々古代ギリシア語で「息」を意味し、転じて生命や魂などの意味が付けられた。文脈によってその訳は異なるが、本曲でプシュケーの意味を限定することはナンセンスだろう。ここにある存在を曖昧なまま、その息吹によって交感することについて、春ねむりは歌う。それはさみしくもあり、あたたかさを感じるものでもある。
本曲に続くTr.6「excivitas」では、一方で全体主義に対する警鐘を鳴らす。ここで歌われているのは、「terrain vague」で歌われたような、曖昧なままのいのちではなく、社会によって整形された人々による全体主義だ。同一の鋳型で固められた個人の集合が、やがては国家というシステムに利用されてしまう様を描いている。本曲で春ねむりは、社会契約説を論じたホッブズの「リヴァイアサン」を引用する。
ホッブズの論ずる社会契約説は、同様に社会契約説を論じたロックやモンテスキューとは異なり、人間は元来、互いを傷つけ合う野蛮な生き物だという前提から始まる。その悪性から市民を守るために、政治主権と契約を結び、国家を形成する、というのがホッブズの社会契約説だ。しかしホッブズはまた、契約を結んだ市民は国家がどのような政策を打とうと、契約を果たした以上いかなる抵抗や革命も許されないとも論じている。
政治主権が市民から離れた国家形態がどのような悲劇を生むかは、火を見るより明らかだろう。ホッブズの思想は17世紀前半のものであり、過渡期の産物であることは留意したいが、今日の日本社会においてもそうした全体主義的思想が蔓延していることは鑑みるべきだ。「政治家が決めたことなのだから黙って従うべきだ」という日和見主義が、残念ながら現在までの悲劇を生んでいる一因でもある。
では、そうした全体主義にはどうやって対抗すればよいのだろうか。同じように集合し、マスゲームによって対抗すべきか? 否、われわれは“千切れたまま”連帯すべきなのだ。
Tr.8「indulgentia」では、現在の社会システムによって免罪されているマジョリティへの怒りが歌われる。歌詞の内容は直接的だが、本曲では楽曲構造に注目したい。全編を通してタブラのリズムを口伝する、ボルのようなボイスサンプルと、4つ打ちのキックによって駆動するダンスミュージックが展開される。音像はそれまでのトラックと関連性が見られるものの、ビートの力強さがこれまでとは違う展開を予期させる。さらに注目したいのは次曲であるTr.9との関連性だ。
本曲と続く「symposium」ではBPM110~120で繋がれ、明らかに踊りやすさを重視した作りになっている。「symposium」ではまた違う、チャントのようなボイスサンプルと、ダンサブルなビートが楽曲を前へと動かす。春ねむりの怒りに満ちたフロウを乗せて、中盤~アウトロにかけてはさらにビートが展開し、リズム解釈に幅を持たせるのはもちろん、DJユースも意識した作りとなっている。本曲の制作において、ダンスカルチャーからの薫陶があったことが伺えるだろう。
こうしたダンスミュージックに体制への怒りを乗せる取り組みは、その源流であるファンクミュージックや、その潮流下にあるテクノ、レイヴカルチャーに至るまで一貫したものだ。ポストハードコアの伝説的バンド、フガジに多大な影響を受けた春ねむりが、また別のカウンターであるダンスミュージックを取り入れたことは、ある意味では何も不思議ではない。そしてパンクではなく、ダンスによってアジテーションを行うことは、本作においては非常に重要な点だ。
つまり、同じ音に乗って、全く違うノリで踊ることがむしろ推奨されるダンスミュージックこそ、“千切れた連帯”とは呼べないだろうか。われわれはこの社会に中指を立てながら踊り、声高に怒りを叫ぶ。それはてんでバラバラであっても構わない。われわれは千切れながら繋がるのだ。
最後に、本作のラストトラック「iconoclasm」に触れてこの文章を締めよう。ここで春ねむりは「もう何も奪いたくない」と繰り返し叫ぶ。ここでの奪われる客体は、もちろん様々な少数者に当てはめることはできるものの、明らかに主題となるものが存在する。そう、今この時に、確かに存在しているパレスチナの人々だ。
春ねむりは本曲で、シオニズムによって造られた国家であるイスラエルと、それを暗黙の内に支持する西側諸国家を批判する。しかしその最たるものであるアメリカに、今なお多くの人々が経済、物質、果てはサービスにおいても強く依存し、消極的であれ支持せざるを得ない。われわれは傍観者などでは決して無く、パレスチナの流す血溜まりの上に暮らしているのだ。少なからずイスラエルによる虐殺を黙認せざるを得ない状況に、われわれは燻りながら怒る。本曲のマーチング的アレンジが、われわれの向かう先を規定する。
春ねむりは、虐殺さえなければ“いま、ここで”生きていたであろう人々を想い、弔う。これは祈りだ。一個人、いや集団でさえ状況を好転させることのできない現状に対して、われわれは怒りながら、悲しみながらも、ただ祈ることしかできない。しかし、その祈りは無力ではないはずだ。春ねむりが歌うように、われわれも繰り返し叫び、歌う。これは千切れた者たちのためのチャントだ。この惨憺たる虐殺を一刻も早く止めるため、われわれはそれを支えるシステムを壊さなければならない。どうか彼らに、そしてわたしたちに未来があることを祈って。
