Takeru Ishiki『The Tower of Sisyphus』――シューターゲームが投影する、覆せない不条理について

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第73回 東京藝術大学 卒業・修了作品展にて発表された伊敷勇琉の修了制作『The Tower of Sisyphus』は、現代美術だけでなく、今日当たり前に受容/プレイされている3Dシューターゲームを批評する作品となった。そしてその批評は、わたしたちの現実の構造にも当てはめることができる。

本作品は一人称視点の3Dシューターゲーム、いわゆるFPSを題材としたビデオインスタレーション。カフカの長編小説「城」、茨木のり子の散文詩「敵について」を引用した、約23分の架空のゲームプレイ映像と、それに対応した展示空間で構成されている。

映像は全5ステージからなるゲームプレイと、それぞれをつなぐ幕間で構成されている。ゲームプレイ中はメインのプロジェクターからのみ映像が再生されるが、幕間が再生されると、展示空間に置かれたゲーム開発者のものと思しきデスクが、映像に合わせて対応したUnreal Engineのエディタ画面を再生する。

本作品はインスタレーション形式で発表されたが、限定公開でYouTubeにも映像が公開されている。(なお、本記事でのリンク添付は制作者である伊敷勇琉の許諾を得た)

舞台は、誰が作ったのかも、あるいは完成したのかもわからない「塔」。プレイヤーはおしゃべりな「案内人」に連れられ、「塔」を登り、あるいは降りていく。鑑賞者はプレイヤーの視点を主軸に、「塔」の攻略を追体験しながら、同時に「案内人」やゲームの制作者である「誰か」の視点を垣間見ることとなる。

なお、本作品は2022年のICCによる新進アーティスト紹介企画「エマージェンシーズ!」の第42回にて発表された『The Magic Mountain』の精神的続編と位置づけられており、伊敷の視点の変容がうかがえるものとなっている。

本稿は、本作品を現代美術からの視点ではなく、あえてゲーマーとしての視点から鑑賞した記録を残すものである。


映像は地下鉄の車内から始まる。『Skyrim』のオープニングよろしく、「案内人」はプレイヤーに状況を説明する。地下鉄は「塔」へ向かっていること、プレイヤーの目的は「敵」の排除だということ。話を聞いているのかいないのか、プレイヤーは所在なさげに周囲をうろつくばかりだ。

プレイヤーは銃を構えているが、その手には何もない。ただ人差し指を伸ばし、拳銃のポーズを取っているだけだ。「案内人」は言う。「お前カッコいいの持ってるなぁ アブナイ感じがしてくるゼ」。プレイヤーは「案内人」に「銃」を向ける。クールなギアは自慢したくなるもの。弾は込められていないから、全くもって安全だ。

この光景は、ゲーマーにとってはお馴染みのものだ。ゲームを起動した途端、理由のわからない状況説明が始まり、お前は「敵」を殺すのだとわざわざ諭される。「敵」を銃で撃ち殺したくてシューティングゲームをプレイしようとしているのだから、そんな説明を受けるいわれはない。プレイヤーは苛立ち、チュートリアルのNPCに武器を向ける。早く「敵」を殺させろよ。早くスコアを更新させてくれ。頼むから。早く、早く。

でもなぜ? なぜわたしたちゲーマーは、「敵」を殺したがっているのだろうか。


続いて、エレベーター内から映像は始まる。どうやら「塔」の内部に侵入できたようだ。薄暗く、入り組んだ通路が続いている。声や足音が反響しており、「塔」は相当広い構造なようだ。いつ死角から「敵」が出てくるとも限らない。プレイヤーは警戒しつつ、訥々と廊下を進んでいく。

「敵」はどこだ。いつ出てくる。その角から出てきた頭をぶち抜いてやる。

通路を抜けると、とつぜん円形の書斎が現れる。どうやらセーフスペースのようだ。殺伐とした通路と打って変わって書斎はモダンな作りで、不可思議な異空間に迷い込んだような心地だ。Remedy EntertainmentのTPS『CONTROL』やそのリファレンス元である「ツイン・ピークス」を想起させる。

先ほどまで駄弁っていた「案内人」はいつの間にかソファでくつろいでおり、プレイヤーを待ちくたびれていた様子。ここで読んだ本がどうの、脚立の役割がどうのとだらだら喋るばかりだ。役に立たない脚立は脚立じゃないし、読めない本は本じゃない。そしてまた、冷めたコーヒーも。プレイヤーはうんざりして、「案内人」にエイムを向ける。「案内人」が喋り終わるのを待って、プレイヤーはエレベーターに乗り込む。

第2ステージで「案内人」が取り上げていた本の一つはカフカの「城」であり、プレイヤーの行く末を暗示しているようだ。ひたすら「塔」を登り、「敵」を探していく。登っているのか、降りているのか。理由もわからず、ただただ前へと進む。それがプレイヤーに与えられたロール/役割なのだから。しかし、それはいつ与えられたものなのだろうか。そもそもそれは、与えられたものなのか?

幕間。デベロッパーツールであるUnreal Engineでのエディタ画面が映し出される。フィールドをズームしていくと、散らかったデスクと上着のかかった椅子が描画される。どうやら、フィールド上に本作品の開発環境がそのまま再現されているようだ。

案内人は訥々と語る。「”あなたの敵はこれです” ”あなたの敵はそれです”」「”そして、隣人を愛しなさい”」「わたしはいつからそう思っているのだろうか?」

デスクの上のモニターには「案内人」のメッシュモデルが表示されている。人形のようなTポーズで、被造物であることが強調されている様子だ。

これ以降、それぞれの幕間では「案内人」の独白とともに、各ステージに点在した開発環境が映し出されることとなる。


第3ステージ。プレイヤーは一直線に伸びたキャットウォークを進んでいく。両側にはコンクリートの構造物が続いており、どこから狙われていてもおかしくない状況だ。霧がかっており、「敵」の有無は視認できない。プレイヤーが神経をとがらせながら進む中、呑気に「案内人」は語りかけてくる。どうやら「案内人」はテレパシーが使えるようだ。

テレパシーは危険な技術だから使うのに免許がいる、と「案内人」は言う。逆に言ってしまえば、免許さえあれば使い放題だということ。プレイヤーは共感する。そう、「敵」を殺す許可が降りているのだから、わたしはいつでも「敵」を殺していいのだ。どんな状況であれ、それが「敵」であるならば。

通路を進んでいくと、突如閃光が画面を包む。進んだ先には、TPSの基礎を作ったといわれる『バイオハザード4』を彷彿とさせる鬱蒼としたあばら家が。中にはブラウン管のテレビが置かれ、コマーシャルを流している。”To become the ultimate person.”「おれ これ好きだな…」「案内人」は独りごちる。

そう、私たちは進歩しなければならない。より多くの「敵」を倒し、「よいこと」をしてスコアを更新しなければならない。いつまで経っても変わらない、あるいは最低スコアを更新し続ける最悪の現状を打ち破るために。もっと、もっと進歩しなければ。そのためには、より多くの「敵」が必要だ。


第4ステージ。エレベーターがたどり着いた先は広いホールだ。プロジェクターに投影された「案内人」が言う。「お前のことが憎くて憎くてたまらない敵が来る」緊迫感を煽るブレイクコアが流れ、ホール全体が真っ赤に染まる。

「敵」が来る。今まで待ち望んだ「敵」が。

プレイヤーは「敵」を探して右往左往するが、一向に「敵」はやってこない。煽る「案内人」。

「敵」はどこだ。眉間を鉛玉で穿ってやる。レティクルが周囲をサーチする。弾は未だ減らない。それもそうだ、そもそも弾がないのだから。

「案内人」は言う。「よっしゃ、ハイスコアだ」ついにBGMはフェードアウトし、プレイヤーのミッションは終わる。


第5ステージ。プレイヤーは山水画のようなフィールドに降り立つ。遠景にはそびえ立つ塔のようなシルエット。振り返り洞窟に進むと、「案内人」が座り込んでいた。話を聞くと「案内人」を辞めたようだ。「この塔には誰もいないし、何もない」、だから「案内人」というロール/役割も果たせない。すべてが無駄だ、と「案内人」を辞めた彼は吐き捨てる。

「クソッ…歯がめちゃくちゃ痛い!…自分が小さくなって で自分の口に入って 自分で治せたらいいよな」彼はぼやく。しかし痛みは消えない。苛立ちも消えない。それを倒す手段はない。

彼は茨木のり子の「敵について」を、滔滔と朗読し始めた。

私の敵はどこにいるの?

  君の敵はそれです

  君の敵はあれです

  君の敵は間違いなくこれです

  ぼくら皆の敵はあなたの敵でもあるのです

ああその答えのさわやかさ 明快さ

  あなたはまだわからないのですか

  あなたはまだ本当の生活者じゃない

  あなたは見れども見えずの口ですよ

あるいはそうかもしれない敵は……

  敵は昔のように鎧かぶとで一騎

  おどり出てくるものじゃない

  現代では計算尺や高等数学やデータを

  駆使して算出されるものなのです

でもなんだかその敵は

私をふるいたたせない

組み付いたらまたただのオトリだったりして

味方だったりして……そんな心配が

  なまけもの

  なまけもの

  なまけもの

  君は生涯敵に会えない

  君は生涯生きることがない

いいえ私は探しているの 私の敵を

  敵は探すものじゃない

  ひしひしとぼくらを取りかこんでいるもの

いいえ私は待っているの 私の敵を

  敵は待つものじゃない

  日々にぼくらを侵すもの

いいえ邂逅の瞬間がある!

私の爪も歯も耳も手足も髪も逆だって

敵! 叫ぶことのできる

私の敵! と叫ぶことのできる

ひとつの出会いがきっと ある

【茨木のり子「敵について」】

プレイヤーは未だに「敵」を探し続ける。いつまで? 「敵」を見つけるまで。サーチアンドデストロイ。そしてそれはプレイヤーだけではない。鑑賞者である我々も、「敵」を探し、塔を登り続けるのだ。


本作品は人間が直面する普遍的で不条理な構造を、FPSの文法を引用して投写したものとなった。FPSはサーチアンドデストロイ、つまり「探索して殺す」ゲームジャンルだ。それは映るものすべてに目を凝らすと同時に、視界の外からの来襲に絶えず怯えなければならない、ということでもある。見えない「敵」は、実在と不在の間に立ってわたしたちを弄ぶ。それをわたしたちは探すのだ。

FPSはPvPや競技シーンが注目されがちなため、ストーリーテリングとは縁遠いジャンルだと思われがちだが、『Call of Duty』のキャンペーンモードや、近年では『Cyberpunk 2077』など、一人称視点のシューターゲームだからこそできる語り口を更新してきたジャンルだ。プレイヤーはアバターを俯瞰することができず、自分ひとりの視点からゲームをプレイしなければならない。たとえば眉間に拳銃を突きつけられたとき、人はどうなるだろうか。それがゲーム画面であることがわかっていたとしても、プレイヤーは緊張せざるを得ないはずだ。

FPSはむしろ「自分がいま何をプレイしているのか(遊び?それとも演技?)」、という問いを立てるのに、最も適したジャンルとも言える。

しかし、ではなぜ本作品はビデオインスタレーションという形態で発表されたのだろうか。先述した通り、FPSでのストーリーテリングはプレイヤー自身がその手で体験するからこそ、確かな重みのあるものとして感じられる。実際にプレイできる形にしておけば、より効果的ではなかったのか?

その答えはふたつ用意されている。ひとつは、「プレイさせないことによる俯瞰的視点」である。

本作品を鑑賞すれば分かる通り、プレイヤーにはいくつもの制約がかけられている。「案内人」の言うことをすべて聞かなければシーケンスを前に進めることはできず、「案内人」の示したルートでなければ先に進むことはできない。さらに言えば、「銃を撃つ」というアクションさえ奪われている。

鑑賞者は非常にもどかしい気分になるはずだ。プレイヤーという階層ですらただ前に進むことしかできないのに、その更にひとつ下のレイヤーである鑑賞者では、それをただ見ることしかできない。そして気づくのだ。「この状況は何かがおかしい、不条理だ」と。

実際にプレイするだけでは、この不条理性を俯瞰して受け止めることはなかなかできない。単に「クソゲーだ」と放り投げられるだけだろう(そういった芸術作品もあってよいとは思うが)。しかしH.264の映像としてエンコードされたときに、その不条理性は個人の視点からは少し離れる。

「ビデオインスタレーション」という形式もまた、アート作品としては不条理なものだ。鑑賞者はただ、映像が終わるのを待たなければならない。ひたすら主観的な視点を強いられるFPSという構造と、俯瞰に徹しなければならないビデオインスタレーションの形式を反復横とびすることによって、本作品は鑑賞者の視点を立体視のように錯視させる。メタな不条理の掛け合わせによって、本作品は「敵」を探し続けるわたしたちの眼差しを炙り出すのだ。

そして次の答えに、「ゲーム制作における舞台裏」の重要性がある。

見えない「敵」を探し続けなければならないという不条理は、プレイヤーだけでなく、構造をかたち作るデベロッパーにおいても存在している。なぜ「敵」を配置しなければならないのか、なぜゲームを制作しなければならないのか? それはプレイヤーが「敵」を求めているから。その役割を求められる限り、デベロッパーはゲーム制作という「ゲーム」から逃れられない。プレイヤーとデベロッパーの共犯関係によって、見えない「敵」は作り上げられる。

位相を変えれば、これは資本主義社会におけるマーケット構造にも当てはめることができる。生産と消費のサイクルはどちらか一方から始まることではなく、互いに求め合っているために、インフレーションを止めることができない。役立たずのがらくたにならない限り、「役割」からは逃れられないのだ。

本作品の展示形式も、その不条理性を理解する補助線として機能している。展示空間に置かれたデスクはただの「開発環境の再現」ではない。幕間でステージ内に開発環境が点在していた事がわかるように、展示空間もまた「現実」というゲームの裏側、つまり幕間なのだ。現実という不条理な構造からは、誰も――構造を作った主でさえ――逃れ得ない事実を、本作品は諦念にまみれた視点で看破している。

本作品は幾重にも織り重なったメタ的視点によってシューターゲーム自体の不条理を照射した、FPSでのストーリーテリングを更新した作品と言えるだろう。

いつまでも終わらない賽の河原のような、否、シーシュポスの岩のような不条理を、これまで積み上げられてきたシューターゲームの歴史や文法によって描きあげた本作品は、現代美術においても、ゲーム業界にとっても価値あるものと言える。作家というゲームもまた終わりのない不条理であるが、伊敷の次回作についても期待したいところだ。

Takeru Ishiki『The Tower of Sisyphus』

Director, Editor: Takeru Ishiki

3D: Takeru Ishiki, Hirata Toraji

Sound Design: Takeru Ishiki, Prius Missile

Lettering: Hoshika Yō