有村麻央「見て」クィア・レビュー――バイナリーな崖を飛び越える王子様

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雨が降っています。空には厚い雲が覆い立ち、辺りは真っ暗です。その雨は切り裂くように〈わたしたち〉の身体を濡らし、〈わたしたち〉の孤独をいっそう強めます。〈わたしたち〉は寄り集まり、骨の折れた傘をなんとか立てましたが、いつしかその傘に集う人はいなくなってしまいました。いつまで経っても、雨は強くなるばかりでした。

しかし、そんな土砂降りの雨の中を、一生懸命に走り抜ける王子様がいました。どうしてでしょう。辺りは真っ暗なはずなのに、その王子様はなぜだか輝いて見えたのです。王子様はうす桃色の髪を振り乱しながら、〈わたしたち〉の目の前を駆けていきました。王子様の名は、「有村麻央」といいました。


2025年10月31日、有村麻央の「STEP 3」編実装に合わせ、新曲「見て」がリリースされた。作詞・作曲・編曲はトラックメイカーのkamome sanoが担当。kamome sanoはクィア(註1)当事者のトラックメイカーであり、本曲においてもそのクィア性が存分に発揮されている。

註1:クィアとは、LGBTQの「Q」にも属する、多様な性的マイノリティを広く指すカテゴリー。また、性的マイノリティが生きる様や、男女二元論的な社会とのトラブル(軋轢)、社会規範とのズレを指す重要な概念でもある。本稿では「クィア」という言葉を扱うとき、特に後者の概念を指す。

本曲は、kamome sanoのシグネチャーサウンドである、UK Garage/2 stepを基調としたパーカッションと、きらびやかなオーケストラルサウンド、フュージョンから薫陶を受けたであろう複雑で味のあるコードワークが全面に押し出され、まさに彼女の集大成とも言える楽曲となっている。

本稿では、本曲の歌詞や楽曲構造を中心に、有村麻央の軌跡と、そのクィア性について読み解くものである。ある種これはクィア・リーディングという、読解をクィアにひらく行為とも言える。この読みは社会一般な普遍性を意識するものではなく、基本的にはクィア当事者であるわたしの主観に根ざしたものだ。

しかし本曲に込められたクィア性は、有村麻央の、そしてkamome sanoの確かな声でもある。だから本稿の読解は主観的ではあるものの、一定の説得力があるはず。なお、本稿では「STEP 3」編のネタバレを控え、本曲「見て」を中心に読解していく。ぜひ楽曲を聴きながら読んでもらえれば幸いだ。


本曲「見て」の話に移る前に、少し有村麻央について振り返ろう。その王子様には夢があった。それは、「自分らしい」トップアイドルになること。

学園の人々から「リトルプリンス」と呼ばれる有村は、自身の「女性的な」身体にコンプレックスを持ちながら、それでも「カッコいい」アイドルを目指していたのだ。自身の理想と、身体との間に横たわる違和に悩まされながらも、それでも「王子様」たろうとする有村の姿に、何度も心奪われてきたプロデューサーは多いはずだ。

しかし、実装当初の「初」編は、その彼女のクィアな試みを、ある種軽視してしまうように思えるストーリーとなっていたのも事実だ。物語上のプロデューサーは、有村の「カッコいいアイドルになりたい」という夢を表面上は理解しつつも、結果的には“彼女”の女性的な側面を全面に押し出し、「かわいいアイドル」へと仕立てあげてしまった。

もちろん劇中でも語られたように、「カッコよさ」という評価自体に多様な側面があるのも事実だ。そして自身の身体的特徴を利用するという考えも、ある側面では有利に働くとは言える。しかし「初」編のストーリーは、有村の持つ「カッコよさ」、そしてクィア性を、残念ながら後退させてしまっていると言うほかない。だって彼女が仕立て上げられたのは、理想とする「カッコいい王子様」ではなく、人々から眼指された「リトルプリンス」の延長線に過ぎないのだから。

少なくともここでわたしは、有村麻央のプロデュース方針に疑問を抱き、『学園アイドルマスター』というコンテンツ自体からも少し離れてしまった。そして有村のキャラクター性に惹かれた他のプロデューサーの間でも、物語に落胆の声を示した人は少なくない。つまり、「可愛さ」偏重のプロデュース戦略は、彼女のファンを結果的に減らしてしまったとも言える。

そんな状況が続く中、本曲「見て」は「初」編においての有村麻央の変容を、これまでとは違う視座から語り直す一曲となっている。冒頭で有村麻央は歌う。

信じて、見つけるから

有村麻央「見て」

そう、本曲は「信じること」についての歌だ。自身の夢と選択、そしてこれまでの軌跡と変容を、信じることについて歌っている。そして信じることは、そのまま「理想の自分」を見つけることでもある。信じること、そしてその祈りを胸にし、わたしたちは独り待ち望んでいた。「王子様」は、きっと迎えに来る。

しかし選択には、常に迷いや戸惑いが伴うものだ。そして迷っている間にも、秒針は刻まれていく。Aメロで有村は、自身の葛藤について歌う。タイトに打ち鳴らされる2 stepのパーカッションは、有村の焦燥感をそのまま描いているようだ。理想とする「王子様」と、それとは反対に成長していく自身の身体。それを直視できず鏡の前で孤独に俯く自分自身を、有村は赤裸々に歌う。

舞台の外側がまだ怖くて

崖の向こうで聴こえてる声の方へ駆け寄れないでいたんだ

有村麻央「見て」

「舞台の外側」、つまり「演技」を求められるステージの外を認識しながら、有村はそのバイナリー(二元論)な崖を飛び越えられずにいた。だって「王子様」の演技をやめてしまえば、この男女二元論をベースとする社会において自分は「女性」でしかない。理想とする「王子様」を追い求めながら、しかしその「王子様」という役割に縛られてしまう自分。その自縄自縛によって、本来「王子様」が手を差し伸べるべき「君」の孤独を助けられずにいたのだ。そして「君」は、もしかしたら「過去の自分」かもしれない。

限りないキラめき/暗闇

あざ笑う爪先

それでもまだ君が期待した光が僕に射すから

有村麻央「見て」

渇望する輝きが光を増すほどコントラストは強まり、辺りの闇はより濃くなっていく。「王子様」という理想が強くなるほどに、それになれない自分、そして現実の暗さが際立っていくのだ。そしていつしか光の方を向けずに、足元を過ぎ去る爪先だけが目に入る。

しかし有村は、それでも光を抱くのをやめない。抱いた光は、ほかでもない「君からの期待」でもあるのだから。「王子様」は、孤独に生きる誰かのために在るもの。それは理想と身体との軋轢を抱えてきた、クィアで孤独だった有村麻央だからこそ在れる、「アイドル」の姿だ。

いつか世界の果てまでこの歌が届くなら

たとえどんな痛みが待ち受けていようと進もう

さあ目を開いて

有村麻央「見て」

1番サビで、有村は高らかに歌う。「世界の果て」で孤独に生きる「君」に、この歌を届けるために。同じ痛みを抱えた「君」のために、有村は歌うのだ。続く「望むなら届くから」というフレーズも、理想と自身との距離を軽やかに飛び越えるように、孤独に生きてきたクィア当事者を勇気づける。まさしく「王子様」として、「君」と「僕」の間に切り立つ崖を、一気に繋いでしまうのだ。それは今まで孤独に生きてきた「君」、そして過去の自分を繋ぐものでもある。だから目を開いて、「王子様」を見て。きっとその先には、光があるから。


王子様もまた、この雨に濡れるひとりでした。しばれる手のひらは震え、過ぎ去る地面には濃い影が落ちています。しかしどんなにずぶ濡れになろうと、王子様は走るのをやめません。王子様はいったい、なんのために走っていたのでしょう。しかしそれが分からずとも、〈わたしたち〉は思わず、王子様の駆ける方へ進んでいったのです。

王子様は、いつしか〈わたしたち〉の道しるべになっていました。


一方続く2番では、自身の「可愛さ」を利用したプロデュースにおける、有村の葛藤が歌われている。

靴の音色

舞台の求める役割(role)

君と僕 切り離す悲劇よ

有村麻央「見て」

STEP 1である「初」編において、有村は「可愛いアイドル」としての役割/ジェンダーロールを求められる。有村の身体的特徴に内在したフェミニンな要素を誇張し、「王子様」ではなく「女性」であることを要請されるのだ。ここでは哲学者であるシモーヌ・ド・ボーヴォワール「第二の性」の「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というフレーズが重要となるだろう。

つまり、いわゆる「女性性」は、身体的特徴だけで決定されるものではない。身体的特徴――顔のつくりや性器、体毛、ホルモンバランスなど、社会一般には「生来の本質」とされる要素は、あくまで男女二元論的な社会から「通常そういうものである」とレッテル付けされたものでしかないからだ。そして、“通常”から離れたクィアな生を生きる人間は、確かに存在する。しかし今現在の社会では、女性的な仕草、振る舞い、そして規範における役割を引き受ける事によって、はじめて“一般的な女性”というジェンダーが社会から貼り付けられるのだ。

舞台、つまり社会規範に沿った「可愛らしいアイドル」となるためには、有村がこれまでの生で獲得してきた「王子様」というロールを捨て、“女性的な”軛を甘んじて受けなければならない。規範的なジェンダーロールとしての「女性性」と、これまで有村が志向してきた「王子様」というロールは、やはりどこかでぶつかり、心のうちに軋轢=トラブルを生む。

「君」の持つ孤独、そして「過去の自分」が持っていた孤独は、1番サビで繋がるかのように思えたものの、有村に要請される“可愛らしさ”によって、惜しくも切り離されてしまう。彼ら/彼女ら、あるいは彼人らが持っていたクィア性は、ここでは捨象されてしまうのだ。

2で割り切れない色色

だけど生きていこう

一度きりでも

有村麻央「見て」

「男性的」、あるいは「女性的」といった二元的な印象は、あくまで“一般的な”社会によって規定されたものでしかない。しかしそこから離れた生き方はきっとできるはずだ。男女二元論では割り切れないクィアな生を、有村は歌う。そこには確かにスペクトルがあり、虹色の光が待っているはずだから。

清くも正しくもないと知っても

毒のグラスなんて自分で投げ捨てるよ

決めつけないで

「強いから」

有村麻央「見て」

「毒のグラス」というワードは、そのまま読めば「ベルサイユのばら」に登場する、主人公を殺す毒とも読めるが、ねじってクィアに読めば、トランス当事者であるウォシャウスキー姉妹監督作「マトリックス」を想起させる。

「マトリックス」では、主人公であるネオに手渡される薬として「Red Pill」と「Blue Pill」が登場する。「Red Pill」を飲めば仮初の世界から目覚めることができるが、「Blue Pill」を飲めば、マトリックスという世界が仮想のものであることを忘れ、現実としてそのまま生きることができる。ネオは仮想世界において“一般的な男性”として生きていたが、「Red Pill」を飲むことによって世界の真実に触れることとなる。

過去に監督たち自身が、「Red Pill」「Blue Pill」はホルモン治療薬の比喩である、ということを明かしているのは有名なエピソードだ。そして初期のストーリーボードでは、ネオはトランス当事者のキャラクターとしてデザインされていたのだという。先述した「Red Pill」「Blue Pill」の比喩から鑑みれば、つまりマトリックスという仮想世界は、男女二元論に根ざした規範的な社会ということであり、それは各人のクィア性を消し去る事によって運営されているのだ。

「毒のグラス」は、「Blue Pill」のように有村のクィア性を眠らせるもの、とも解釈可能だろう。それが社会一般において“正しい行為”ではないと知っていても、「毒のグラス」を煽ることはできない。それが自身のクィアな生において“毒”であると知っているのだから。

一方で有村は、「王子様」につけられるマッチョなニュアンスも否定する。社会的に要請されるマチズモは、ここでは必要がない。その「男性性」は、クィアな「君」を救うものにはなり得ないからだ。

一生暗い夜明けの上で「今」がただ続くなら

僕が視た光を太陽に代えて演じてみせよう

大丈夫、笑って

有村麻央「見て」

2番サビで有村は、ジェンダーロールを演じる行為を逆に利用しようとする。この行為は、ジュディス・バトラーの提唱した「ジェンダー・パフォーマティビティ」という概念と接続することができるだろう。バトラーは著作「ジェンダー・トラブル」において、「ジェンダーはつねに「おこなうこと」であるが、しかしその行為は、行為のまえに存在すると考えられる主体によっておこなわれるものではない(竹村和子訳,青土社,2018年,p58)」と説明している。

このままでは非常にわかりにくいため、藤高和輝の「バトラー入門」を引くこととしよう。

一般的に「生来の本質」は「外側」に表出されたものとして考えられがちなジェンダーという「行為」だが、実は、その「行為/パフォーマンス」の反復や積み重ねによって、「内側」にあるとされている「本質(と規定されているもの)」があたかも最初から存在するかのように事後的に作られていく、というのがバトラーの見方だ(藤高和輝著,「バトラー入門」,筑摩書房,2024年,p74)

つまり、社会から貼り付けられるジェンダーは常に生来の本質≒セックスから「表出」されるものではなく、ロールを演じるという行為によって後から規定されるものだと考えることができる。これは先ほど引用したボーヴォワールの理論とも繋がるところがあるだろう。事実、バトラーはボーヴォワールを「ジェンダー・トラブル」にて引用している。

さて、このジェンダー・パフォーマティビティを先に引用したフレーズにあてはめると、「演じる」という行為が目立って読めるはずだ。男女二元論が通底するこの暗い舞台の中、僕が見た光、つまり「王子様」という理想を、改めて演じることによって、自身を「王子様」として確立することを歌っている。

もちろん「王子様」もまた、社会から規定されたジェンダーロールの一形態であることは留意したい。ジェンダーは自由に生み出すことのできる理想ではなく、常に社会規範と、それに対応した自身の行為によって形作られるものだ。ここでは、有村に手渡された「可愛らしいアイドル」の台本と、憧れる「王子様」の台本を読み替え、自身だけの演技を形作っていく様子が見て取れる。

そして、楽曲構造にも注目したい。UK Garageのマナーを引用しつつゲインを上げた粘り強いベースラインは、Bubblegum Bassの旗手であった故Sophieや、PC Musicの主宰であるA.G.Cookを想起させる。Sophieもまた、EDMのマナー、つまり台本を読み替えたキャンピーなアーティストだった。そしてそれをまた読み替えたkamome sanoのアレンジメントは、連綿と続くクィアミュージックの歴史を、自身の方法で更新しているのだ。そして有村麻央は歌う。

望むなら届くから

遠く彼方、一番星(トップスター)でさえ

有村麻央「見て」


ある時、王子様は立ち止まりました。王子様の眼前には、深く大きな谷が横たわっています。ついに、王子様は「世界の果て」に来てしまったのです。まだ、雨はやみません。〈わたしたち〉がかたずを飲んで見守っていると、王子様は振り返り、なんとこちらに笑いかけたのです。そして、王子様はその崖を、軽やかに飛び越えていきました。

その笑顔は、まるで明けの明星のようでした。


間奏で、有村麻央は独白する。「トップアイドル」への憧れと、その演技に対する葛藤。自分自身の苦しみや辛さ、生きづらさでさえ、舞台の上では隠しきらなければならない。舞台の上に立つ者は、常に輝きを持っていなければいけないから。舞台=規範の上で踊るためには、その作法は欠かせないものだ。

パフォーマンス=違う自分を求められる商売

光の正体

でも綺麗で

ずっと追いかけていたい

0/1ではない

自分らしく/光っていたい

どこまでも!

有村麻央「見て」

ここでも、前述したジェンダー・パフォーマティビティの概念が重要となる。アイドルとしてパフォーマンスを行うことは、ある種自身を誇張することであり、その誇張によって、舞台の上で輝く「アイドルの本質」というものが形作られる。ドラァグクイーン/ドラァグキングが女性性や男性性を誇張したパフォーマンスを行うように、アイドルもまた、誇張やデフォルメによって成り立っている「商売」なのである。

しかし、その誇張は決してネガティブなだけの要素でもない。先述したドラァグクイーン/ドラァグキングは、その誇張によって社会規範と自身とのクィアなズレを言外に暴く。そして「王子様」というジェンダーロールもまた、「カッコよさ」と「可愛らしさ」を併せ持つ、男女二元論では割り切れない役割でもある。

そう、0/1のバイナリーな区分けからはズレた、有村麻央だけの光=アイドルを演じることだってきっとできるはず。自分らしさ、これまで「演じて」きた王子様を、その演技によって光にすることができるのだから。

僕が選んだ色自体が僕だ

そう、誰にも剥がせない

The Choice is just mine

有村麻央「見て」

繰り返し歌われてきたこのフレーズは、有村麻央のスタンスを端的に表している。前段から歌われた男性的/女性的のどちらでもない、二元的な区分けにはないあわいを、自分自身だと定義すること。ここから有村麻央がノンバイナリーとしても読める、というと言い過ぎだろうか。

ノンバイナリーとは、出生時に割り当てられた性別ではなく、また男性/女性のどちらのカテゴリーにも属さないジェンダーアイデンティティを指す。

バイナリーな性別ではなく、どちらでもない「王子様」として生きること。ノンバイナリーというカテゴリーはこれまでの有村麻央の軌跡や、行ってきた選択を肯定するものでもあるはずだ。そしてそれは、誰からも奪うことのできないアイデンティティでもある。

変わらない数字を嘆くのをやめた時気付けた

弱くても初めから手にしてたフォーカード

逆さまの夢の続きを

君と

有村麻央「見て」

「変わらない数字」とは、様々な解釈が可能であるが、ここではバイナリーな男女二元論とも読むことも可能だろう。今現在の社会に通底する0/1の判断法は、今のところ個人で変えることはできない。しかし、その0/1をひっくり返すことのできる役を、有村はずっと持ち続けてきた。

MVを観ても分かる通り、そのフォーカードはこれまで有村が「アイドル」として活動し続けた軌跡だ。フォーカードはポーカーではそこまで強くない手だが、「大富豪」というルールに則れば「革命」の一手である。『学マス』元プロデューサーも、公開生放送にてこの解釈を披露している。「可愛らしさ」も「カッコよさ」も、その変容は有村麻央だけの生にあるもの。そして個人の生き様によって0/1を転覆させることだってできるはずだ。有村麻央は冒頭を繰り返し、歌う。

信じて、見つけるから

鏡の中の迷子

何度見失ったとしても

目を開いたら消えそうな揺らぎを/誓いを

=〈僕〉を再演し続けて

有村麻央「見て」

有村麻央は何より、「過去の自分」に向けて歌う。これは宣誓だ。鏡の前で俯き、さまよい続けてきた自分。でもその迷いは、これまでの有村を形作ってきた軌跡でもある。曲がりくねった道のりで変容を続けた自分自身を、有村は抱きしめるように歌う。何度も何度も、自分の思う「王子様」を再演し続けること。それを舞台の外側に見せることは、孤独を抱え迷い続けてきたクィアを確かに勇気づける。

そして幕が下りたら君を迎えにいくよ

それまでは僕を、

変わりゆく僕を――

有村麻央「見て」

ラスサビで有村麻央は、「いま世界の果てまでこの歌が繋げるから」と歌う。「世界の果て」、規範的な社会の周縁で生きる「君」に、この歌を届けるために。いつしか焦燥感を与えていたパーカッションはドラムンベースとなり、楽曲全体を押し出すキックとベースが重く踏み込まれ、「世界の果て」へと走り抜ける有村の足取りを表しているようだ。そして裏側で鳴らされるオーケストラルサウンドも、王子様の軌跡とその向こうにいる「君」を祝福するように伴奏を奏でる。

ついに「王子様」は走り出す。だから滲んだ涙を拭いて、王子様を見て。

望むなら届くから

もう失くさない この姿

望むまま届くから

孤独じゃないよ、僕らは

有村麻央「見て」


王子様は崖を飛び越え、そのまま行ってしまいました。もう誰も、王子様がどこへ行ったのか知りません。

しかしそのあと、いつしか崖の向こうの地平線に光が見え始めました。いつのまにか雨は弱まり、雲の間には裂け目が生じています。〈わたしたち〉は話を合わせるでもなく、いつの間にか谷を繋ぐ橋をつなごうとしていました。どうして、あの時王子様は笑ったのでしょうか。しかしそのキラめく笑顔は、〈わたしたち〉にとって忘れられないものとなったのです。

〈わたしたち〉は光の方へ、少しずつ進んでいこうとしていました。


本曲「見て」は、有村麻央の変容と、それによって生まれたクィア性を深く歌う一曲となった。「見て」というタイトルは、孤独に生きるクィア当事者に対してのものでもあるし、規範的な社会から有村を眼差す視線を真っ向から受け止めるものでもある。

クィア当事者に対する視線は常にねじれている。一方では社会から「無いもの」として透明化され、他方では「鼻つまみ者」として悪魔化され、揶揄の視線を向けられる。その視線の不在と揶揄にさらされながら、クィアは常に生きているのだ。

しかしそこで、有村は「目を開いて」と歌う。俯いた視線を「王子様」に向けてと歌うのだ。「王子様」は舞台の持つ規範とのズレを感じながら、それでもステージに立ち、歌い踊っている。それは確かにクィア当事者を勇気づけるものであるし、マジョリティに対しての宣戦布告でもある。「見て(Face Me)」というタイトルには、有村麻央の覚悟と矜持が表れているのだ。

だから「王子様」を、ねじれて曲がりくねった有村麻央の軌跡を、それでも再演し続ける姿を、わたしたちは見るべきなのである。だって「王子様」は、こちらを向いて歌っているのだから。

そして観客のわたしたちも、有村麻央に対して、そしてこの社会に生きるマジョリティに対して、「見て」と叫ぶべきだろう。今まで透明化され、あるいは悪魔化されてきたわたしたちではあるが、それでもわたしたちはこのクソみたいな世界に生きている。だから、わたしたちを「いないもの」にしないで。見て、そして向き合って。この規範とズレた歩き方、歌い方、踊り方をする無様なわたしたちを、見て。