スピッツ「フェイクファー」をクィアに読む――クィアのどうしようもない出会いと別れについて

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いつも仲良しでいいよねって言われて でもどこかブルーになってた

あれは恋だった

スピッツ「仲良し」

スピッツが1998年にリリースした8thアルバム「フェイクファー」は、柔らかな光の中に溶けそうなジャケットが印象的ながら、その実薄い灰色の陰をまとった詞が特徴のアルバムだ。

冒頭に引用したTr.5「仲良し」もまた、そうした陰の垣間見える楽曲だ。歌詞を“文字通り”に読めば、状況としては片思いをしている相手との親密さを、単なる友情と勘違いされてしまうことへの寂しさが描かれているフレーズと言える。

しかしどうだろう。読者の皆さんはこの二人をどのような関係性だと感じただろうか。やはり「男性」と「女性」? しかしここには、ジェンダーを同定する代名詞は使われていない。草野マサムネが歌う「自分」でさえ一人称は使用されず、「君」はずっと二人称のままだ。つまり、ここでは、二人の関係性が“異性”なのか“同性”なのか、はたまた“それ以外”なのかは全く分からないのである。

この詞をトランス当事者であるわたしが初めて読んだとき、率直に言って本曲はわたしのための、あるいはクィアのための失恋ソングだと、一点の疑いもなく感じた。それはなぜか。クィアにこそ、恋愛に発展しうる関係性を「仲良し」という言葉のみで片付けられてしまうシチュエーションが多々発生するからである。例えば同性間にも芽生えるはずの恋愛的な「起こり」は、他者からの揶揄や、それこそ友情といった“親切な”カテゴライズで簡単に消し去られてしまうのだ。そうした状況のやるせなさや悲しみを、本曲は柔らかなトーンで描き出している。

何度も口の中つぶやいてみた

かすかなイメージだけを 追い求めてた

スピッツ「仲良し」

続くこのフレーズも、恋愛的な「ゴール」につながる細く儚い糸を、相手には何も伝えられずにただ独りごちるだけの様子が確認できる。ありきたりな異性愛にもそうした場面はありえるものの、この切実さはクィアの恋愛においてより強く自分事として感じられるものだ。相手への恋心を簡単には口にできないもどかしさ、社会に蔓延する異性愛規範によるハードルの高さ、そして相手が「同じクィア」だと断定できない寂しさ。そうした立ち行かなさは、やはりクィアの恋愛特有のものと言えるだろう。

そして、これはなにも同性愛だけのシチュエーションではない。わたし個人の例を引き合いに出せば、トランスが他者との恋愛関係を築くことにはやはり相当なハードルがある。たとえ相手がゲイやレズビアンであったとしても、「トランスであること」を理由に恋愛対象から外されることは多いし、性別移行の程度によってもそのハードルはひどく変化する。そしてなにより、自分自身こそが「結局どちらの性別にもなれないし、誰かと愛し合う事もできない」と思ってしまう。異性愛規範(あるいは同性愛規範?)を内面化した半ば自嘲的な悲観が、恋愛関係において強く足を引っ張ることがほとんどだ。

悪ふざけで飛べたのさ

気のせいだと悟らずに いられたなら

スピッツ「仲良し」

サビ終わりのこのフレーズも、クィアにとっては耳に痛い一節だ。そう、こうした微妙な関係性でさえ、「悪ふざけ」でえいやっと飛び越えてしまうことはできる。しかし、自分の気持ちをただの気の迷いだと“悟って”しまうことがほとんどだ。結局自分の性的指向やアイデンティティは、規範的な社会から見れば間違っているのだから。そうした社会からの要請、内面化した規範からの修正力によって、わたしたちはまた恋を諦める。

時はこぼれていくよ ちゃちな夢の世界も

すぐに広がっていくよ 君は色褪せぬまま

スピッツ「仲良し」

そうした喉に突っかかるトゲのような苦しみを、「仲良し」は平易なボキャブラリーで丁寧に表している。サビのフレーズは、二人の持つ豊かな時間がいずれ消え去ってしまうことを示唆している。苦くも甘く感じられるこのひとときも、「普通の思い出」が増えるごとにいずれ希釈されていくのだ。

しかし興味深いのは、こうした、夢が覚めていく瞬間が必ずしも否定的なニュアンスでは描かれていない点にある。2番サビに続く「雨上がりの切れ間から 差し込む陽の光たち 街を洗う」というフレーズから見ても、失恋という事実に対してどこか俯瞰しているような様子が見て取れる。実はこれも、クィアにとっては切実な感覚だ。なぜならクィアの恋愛は社会規範にさらされ、常に自己を俯瞰しなければならないからだ。

先ほど「失恋」と書いたが、厳密にはこの状況は失恋ではない。例えば告白など、相手とのコミュニケーションによって恋が敗れたのではなく、単に自分からその素振りを見せずに、心の燻りを揉み消しただけなのだ。これは失恋以前の問題である。なまじ異性愛規範を内面化してしまっているばかりに、その規範という視点からクィアな自己を俯瞰し、諌めなければならない。そうして社会にとっての「普通の人間」として生きることは、自身のクィアネスを覆い隠す苦しい行為ではあるものの、一方では規範に埋没できる安心感も感じられてしまう。「仲良し」は、そうしたクィアのアンビバレントな感情をも描写している。

本曲は最後に、冒頭のフレーズを繰り返して幕を閉じる。眩しい「君」の表情や親密だった思い出を忘れることはできないまま、「普通」の生活に戻らざるを得ない切なさを描写しているのだ。

「フェイクファー」は、こうした「出会い」と「別れ」が、ごく私的な内的世界で展開されていくアルバムと言える。本記事では、そうした出会いと別れについて、クィアの視点から読み解いていく。


他ならぬ君と走り抜けたい――「運命の人」

Tr.4「運命の人」は、諦めのつき始めたクィアの人生に、一筋の光が差し込める瞬間を描いた楽曲と言える。まずは歌詞を読む前に、楽曲構造から読み解いていきたい。

本曲イントロのパーカッションはブレイクビーツで構成されている。基本となる、録音された8小節のドラムパターンを波形として繰り返し、それに合わせてCR-78のリズムボックスがシェイカーを刻んでいるかたちだ。ドラムパターン自体は要所要所でフィルインが入るものの基本的には同じだし、リズムボックスのパターンも楽曲全体で繰り返されている。ここから、楽曲全体が「ループ」を主軸として構成されていることが分かるだろう。この繰り返しこそが、本曲の読み解きにおいて重要だ。

バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日

でもさ 君は運命の人だから強く手を握るよ

スピッツ「運命の人」

上に引用した本曲の歌い出しは、そのループが強く意識される一節だ。路線バスの、若干のグルーヴをもちながらも周期的な揺れが、そのまま人生への諦念を感じさせる。また、バス自体も同じ路線を同じ周期で周回するものと言える。つまり日常的な繰り返しにしか人生の意味がないという悲しい達観が、ここでは表れているのだ。単調な繰り返し、それこそが規範的な「普通の人生」であり、そこに大きな揺らぎはない。

しかし次のフレーズで、「でもさ」と草野は歌う。「君」という運命の人と出会ったことによって、その状況が少し変化するのだ。しつこいようだが、本曲でもジェンダーを同定する代名詞は使われていない。単調なブレイクビーツの上で、その日常を変化させうる出会いがあったということだろう。

しかしこれは、ただ漫然と生きているだけで日常が劇的に変化する、ということを意味しない。本曲は自分と「君」の二人で、意思を持って能動的に行動し、日常を変化させることを描いている。それは続く「強く手を握るよ」というフレーズからも伺うことができる。手を強く握る、という行為は、その後の行動に大きく影響する。一緒に規範的な社会を走り抜けるには、どこかで強く手を握り合う必要があるのだ。

続いて「ここにいるのは優しいだけじゃなく 偉大な獣」という、ある種ツッコミ待ちとも取れるボースティングが入ることからも、「君」をどうにか安心させよう、あるいは不安な自分自身への鼓舞ともとれる意思が感じられる。これは群れの中の羊ではなく、二人孤高に旅する狼たちを想起させる。

愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ

変な下着に夢がはじけて たたきあって笑うよ

スピッツ「運命の人」

続いて、本曲の最もキャッチーなフレーズについて。言葉通りに読めば、安上がりな大量生産の愛はいらない、という詩的な表現とも感じられる。しかし以前友人とこの曲について話した際、彼女はまた違った解釈を教えてくれた。曰く、「愛」とはコンドームの暗喩ではないか、という読みだ。実際、ファンの間ではまことしやかに囁かれる解釈であるそうで、不思議と腑に落ちる比喩だと言える。

続くフレーズに「変な下着」という単語があることからも、楽曲中の二人がアダルトショップをぶらついているように読めるのは明らかだ。コンビニに売っている味気ないコンドームではなく、ちょっとドン・キホーテまで足を伸ばして、ついでにアダルトコーナーを回ってペラペラのコスプレに笑う、といったデートの状況を容易に想像できるだろう。このフレーズは、二人が行為に及ぶ前にたびたび行う、ちょっとしたスキンシップや感情の盛り上がりを感じることのできるエロティックな一節だ。

さらに、「変な下着」というワード自体にも注目したい。この下着は、一体誰が着用することを想定していただろうか。いわゆる「女性用」のショーツ? それとも「男性用」のTバックだろうか。変な下着に“夢が弾けて”、とあるように、これを穿くのは「君」でもあり得るし、本曲を歌う「自分」でもあり得る。

先述したように二人のジェンダーは同定されていないため、どのような形もありうると考えていただきたいが、率直に言ってこれは、変態趣味におけるクィアネスを感じさせるフレーズだ。クィアやそれに類する同性愛は、古くは性的倒錯というカテゴライズがなされてきた。そしてクィアとは「規範的な異性愛者」以外全てを指す言葉でもあった。そして同性愛の歴史は、ボンテージやペニスバンド、手錠にボールギャグなど、サドマゾヒズムといった性的倒錯とともに歩んできたものだ。つまりクィアという概念は、セックストイや「変な下着」と切っても切り離せないのである。

扇情的な下着に対する「これはちょっと…」という苦笑いと、「穿いてみたらどうなるのだろう」と思ってしまう倒錯。そうしたクィアな欲望が、このフレーズでは爽やかに、しかしニュアンスを損なうことなく歌い上げられている。

走る 遥か この地球の果てまで

悪あがきでも 呼吸しながら 君を乗せていく

スピッツ「運命の人」

そうしたエロティックな盛り上がりをそのまま引き継いだサビは、爽やかにこの規範的な社会を走り抜けていく気概に満ちている。規範からは逃れきれない、世界の果てに届くことはないと分かっていても、きっと君と二人なら大丈夫。そんな二者間の親密な繋がりがうかがえる一節だ。こうした社会からの逃避は、「フェイクファー」の楽曲それぞれで確認することのできるムードだ。

そして「フェイクファー」において共通するのは、そうした逃避は「自分ひとり」だけではできないと暗に示唆している点にある。社会規範から抜け出すことはどんな集団でさえ、非常に難しいものだ。しかしここでの逃避の対象は、他ならぬ「内面化してしまった規範意識」だ。

内面化に対して自覚があったとしても、それを自分で頭の内から引き剥がすことはできない。むしろそうすれば、たちまち自家中毒を引き起こしてしまう。他者とのコミュニケーションや繋がりでしか、内面化してしまった規範意識は解きほぐすことができないのだ。だからこそ、草野は「アイニージュー」と歌う。

アイニージュー あえて 無料のユートピアも

汚れた靴で 通り過ぎるのさ

自力で見つけよう 神様

スピッツ「運命の人」

続くフレーズの、「無料のユートピア」という一節にも注目したい。フレーズ終わりの「神様」というワードから考えれば、たしかに原義的な理想郷が思い起こされるだろう。しかし、ここで重要なのは、前段にかかる「無料」という部分だ。フリーパスの理想郷、という考え方もできるが、そんな甘いものは現実に存在しない。それに今回の読解では、より俗っぽい読みが似合うだろう。直後に「汚れた靴」というワードが続くことからも、「無料のユートピア」は現実に根ざしたものの暗喩と考えることができる。

「無料のユートピア」というワードをあえてクィアに読み解くならば、風俗街の無料案内所の暗喩と取ることもできる。一応説明しておくと、無料案内所はその地域の風俗店やキャバクラなどを無料で紹介してくれる店舗である。嬢たちの宣材写真がきらびやかに並べられる無料案内所は、たしかに「普通の男性」にとってはユートピアと言える。

ドンキから帰ってラブホに向かう途中、煌々と光る無料案内所を黙って通り過ぎていく。そうした一瞬の猥雑さが感じられるフレーズとしても読むことができるのだ。そしてここで重要なのは、やはり自分の意思で「理想郷」を見つけることだ。「自力で見つけよう 神様」というサビ終わりのフレーズも、他ならぬ自分が信じられる「神様」、つまり進む方向を示す標を探せ、という意味とも読める。

人生は確かに繰り返しだし、ことクィアにおいては常に困難が伴う。それこそがクィアの日常だ。しかし、「君」と二人ならサバイブできるはず。そうした一縷の望みをもって、二人は笑いながら走り抜けていくのだ。

しかし、その疾走感で終わらないのも本曲の魅力だ。本曲のアウトロはBPMを半分に割ったブレイクビーツのループで幕を閉じる。冒頭の読みから発展させれば、これは弛緩した「普通の日常」に戻ったということだろう。結局、単調なループからは抜け出せない。そうしたビターなエンディングながら、しかし「運命の人」との出会いは、全く無駄ではないはずだ。


閉じた部屋からの脱出を寿ぐ――「謝謝!」

Tr.9「謝謝!」は、軽やかなブラスが聴者を祝福するかのような、「フェイクファー」の中でも異色なハッピーなナンバーだ。しかしここでも、「フェイクファー」の持つ、透き通るような陰が感じられる。

終わることなど無いのだと 強く思い込んでれば

誰かのせいにしなくても どうにかやっていけます

やり直してもいいのです 今度は一人ぼっちでも

記号化されたこの部屋から ついに旅立っていくんです

スピッツ「謝謝!」

ハッピーなイントロから流れるように繋がる歌い出しは、しかしどこか諦念を感じさせるものだ。かならず来る「終わり」を見ないふりをして、どうにか暗示をかけるかのような呼びかけに思える。楽曲の明るさとの奇妙なマッチを見せるこのフレーズは、どこか結婚式の祝辞のようだ。

続くフレーズも、この祝辞を受ける人との別れが示唆されている。「記号化されたこの部屋」というワードが出てくることからも、相手は閉塞的な環境から抜け出すことができた、ということだろう。「フェイクファー」ではたびたび、「箱」のような閉鎖環境から抜け出す、といったベクトルのフレーズが頻出する。先述した「運命の人」のループも、広義ではこれに当たるだろう。つまり本作は、どうにかこの閉鎖的な世界から抜け出したい、という燻りが垣間見えるアルバムなのだ。

このフレーズもクィアに読み解けば、自分と親密だった、祝辞を受け取る人がついに社会規範の外側、あるいは異性愛規範の傘に入ることによって、その境界線で受ける苦しみをついに無効化できたと取ることもできる。それは確かに喜ぶべきものだ。同性婚ができない日本の中では、クィアは常に社会のアウトサイダーとなるか、あるいは異性と結婚して「普通の人」として生きるしかない。しかし、規範から抜け出せず、かといって規範の内側へ入り込むこともできない、どっちつかずの人間にはどこか寂しくも思える。

生まれるためにあるのです じかに触れるような

新しいひとつひとつへと 何もかも悲しい程に

スピッツ「謝謝!」

2番Aメロのこのフレーズも、内容としては非常にポジティブながら、フレーズラストの「何もかも悲しい程に」という一節が心に小さな引っかき傷を残す。非常に抽象的な内容だが、穿った見方をすればこれも別れについてのフレーズだ。これまで自分とほとんど同一に思えたクィアな存在が、やがて“触れる”ほどに分離していってしまう様には読めないだろうか。クィアは当事者が少ないからこそ、当事者同士での結びつきはより強くなる。しかし、結局はお互い別の人間だ。そうした別れでさえ、ネガティブなニュアンスを残さず「生まれる」というワードで表現するのも、なんともいじらしく可愛らしい。

あくまで優しい君に 謝謝!!

赤い土にも芽吹いた

大空に溶けそうになり ほら全て切り離される

くす玉が割れて笑い声の中

君を見ている

スピッツ「謝謝!」

本曲のラスサビは、目一杯の祝福を「君」に贈る。そんな「上がり」を迎えてしまった君でさえ、どうしてかこんなわたしにも優しい。完全なユートピアを見つけた君は、割れたくす玉から落ちる花吹雪に降られ、満面の笑みをたたえている。でもこの曲を歌う「自分」は、それを見ているだけ。「君」の立つ舞台には到底近づけない。でも、君のことは見守っていたいと思う。

「謝謝!」はクィアに読み解けば、「上がり」を迎えてしまった親しい当事者への祝辞と感謝のような楽曲となった。この楽曲の憎いポイントは、それでも時折、別れに対する寂しさを見せる点にある。「上がり」を迎えた君へ、精一杯の祝福と別れを。


アルバム「フェイクファー」は、スピッツの恋愛観における転換点とも言えるアルバムだ。それまでなかった社会や規範という大きな閉鎖空間が意識され始め、どうにかそこから抜け出したいという燻りが垣間見える。しかし一方で、社会規範という巨大な構造に対してどこかで諦めを持ち、内向きな、内的世界に引きこもるかたちで逃避しようといった心の機微も存在する。

本作以降、草野マサムネの詞は少しずつ変化を見せ、2023年には17thアルバム「ひみつスタジオ」をリリース。社会規範に対してより強い意識が見られ、スピッツなりの抵抗を見せるアルバムとなった。そうしたスピッツの歩みが感じられる、ラストナンバーであり表題曲の「フェイクファー」に触れ、本記事は締めさせていただきたい。

本曲もまた、恋愛的な出会いを描いた楽曲と言える。注目したいのは、言わずと知れた有名曲「楓」など、これまで別れを主題とした曲を多く収録しながら、最後にまた「出会い」の曲を収録していることである。草野は赤裸々に、盲目的な恋の始まりを歌っている。特に注目したいのはラストのフレーズ。

今から箱の外へ 二人は箱の外へ

未来と別の世界 見つけた そんな気がした

スピッツ「フェイクファー」

ここでも「箱の外」というワードが重要となってくる。やはり二人だからこそ、箱の内側から抜け出すことができる。そしてその外側は、単なる「明るい未来」ではない。これまでとは地続きではない、全く新しい世界だ。そこではやっぱり、傷ついたり悲しんだりすることもあるかもしれない。でも、箱の内側へ戻る気はさらさらない。どうしたって、わたしたちは進んでいくのである。

なお、本記事は友人でありクィアなスピッツファンの、プロデューサー・トラックメイカーであるkamome sanoとの談義から着想を得た。心から深く感謝を述べたい。