何度故障しても直せるからと 微笑み分けてくれた
どんな答えなら良いのか解らず 戸惑うのも楽しくて
今も僕は暖かい
スピッツ「i-O(修理のうた)」
そう、「ひみつスタジオ」は、他者との関わりによって痛みを「なおす」ことについてのアルバムだ。スピッツが2023年にリリースした17作目のスタジオアルバムは、前作から3年半ぶり、コロナ禍を抜けて初めての作品となった。
アートワークのかわいらしい黄色をそのまま表すような快活なサウンドが響き渡る本作は、全編を通してあたたかなムードが表現されている。そうしたムードはサウンドだけでなく、草野マサムネの歌う詞からも感じ取れる。
冒頭に引用したTr.1「i-O(修理のうた)」は、治りの遅いかさぶたを、愛おしく撫でるような述懐から始まる。具体的な傷の経験については語られないものの、そうした痛みが他者との関係性や、交わした経験によって見つめなおされていくような一瞬を描いたフレーズだ。
負ってしまった傷は、完全に癒えるということはありえない。怪我は(肉体的なものであれば)だいたいのところやがて塞がっていくが、傷の経験――つまり、傷を負ったという記憶は、ふとしたことで簡単に痛みを伴うものだ。しかし、その痛みは誰かの何気ない言葉や行動によって変化することもある、ということを「ひみつスタジオ」は教えてくれる。
経験による痛みはある種普遍的なものとも言えるし、実際草野の詞はそうした普遍性を包摂した描写を行っている。しかしながら本稿では、草野の詞を”クィアに”、つまり突飛に読んでいきたい。”クィアに読む”ということは、社会一般な普遍性を意識するということではなく、ある特定の属性を生きてきた人間たちに向けて読む、ということだ。
クィアはこれまで確かに存在しながら誰にも顧みられず、また当事者自身も他者というものに強く怯えてきた。前述したような経験による痛みは、クィアとして生きていくごとに生傷として増えていきながら、ほとんど癒えることはない。
しかし「ひみつスタジオ」はそうした、透明化された苦しみや痛みを捨象することなく、繊細な手つきでゆっくりと解きほぐしてくれる。それが可能なのは、詞の普遍性だけでなく、そのフォーカスが「透明化された存在」に絞られていることにもある。「これまで居なかったことにされてきた」わたしたちの目線から、草野の詞は書かれているのだ。
本稿では「ひみつスタジオ」の内のいくつかの楽曲をピックアップし、それらをクィアの視点から読んでいく。いささか強引な読みもあるだろうが、そこはご容赦願いたい。クィアリーディングとはそもそも、「読解」があくまで個人的な読みにすぎないことを暴き、その可能性をひらく行為だからだ。少々の時間、拙いながらもクィアな読みを楽しんでもらえれば幸いである。
そして、同じ傘の下で今もなお降り注ぐ雨に堪える、クィアなスピッツリスナーが本稿にたどり着き、この声に気づいてもらえたなら、それ以上の喜びはない。
■「隠れてきた妖怪」をやさしく引っぱり上げる「跳べ」
闇に目が慣れていろいろと 姿形があらわになり
不気味が徐々に可愛さへと
化け猫でも良いよ 君ならば
スピッツ「跳べ」
Tr.2「跳べ」は、直球とも思えるほどクィアをエンパワメントするような詞を歌っている。先ほど引用した歌い出しでは、暗がりにいた「化け猫」のような存在を、明かりをつけるでもなく、目を凝らして見つめていく様子を描いている。そうしているうちに最初は不気味に思えた妖怪も、どこか可愛らしく見えてくるのだ。このフレーズは、マジョリティや社会に悪魔化された(あるいは妖怪変化として扱われてきた)存在を、ありのままの姿として肯定しているように読める。
しかしながら、この詞をクィア当事者として読めば「可愛い」という形容も、不気味という形容とそう大差なく思えるかもしれない。それは結局ルッキズムによるものとも読めるし、マジョリティによって「かわいらしいクィア」というものが残酷に搾取されてきた歴史もあるからだ。
しかし「ひみつスタジオ」での「可愛い」という形容は、その対象を唯一の存在として尊ぶことを意味している。その賛辞は先述した「i-O(修理のうた)」にある一節にも現れている。
マニュアル通りにこなしてきたのに 動けなくなった心
簡単な工具でゆがみを正して 少しまだ完璧じゃないけれど
可愛くありたいハレの日
スピッツ「i-O(修理のうた)」
ここでの「可愛くありたい」は少し奇妙な言い回しだ。続くサビの「愛をくれた君と 同じ荒野を歩いていくよ」というフレーズからみても、普通ならば荒野をものともしないタフさが形容されてもおかしくない。しかしこの可愛いは、荒野を生き延びていくために必要な自己愛であり、なにより「愛をくれた君」に可愛いと思ってもらいたい、という焦がれを表している。
「可愛さ」というものは他者からの評価だが、ここでは誰でも良い誰か、ではなく、他でもない「君」にそう思ってもらいたいのだ。そしてその欲求は、自らを立て直す糧ともなる。交換不可能な他者とのつながりや経験によって、この社会をどうにか生き延びるしなやかさを得ていく様を、「ひみつスタジオ」はたびたび描いている。
「跳べ」のサビで草野は、「ここは地獄ではないんだよ」とわたしたちに語りかける。クィアアーティストのRina Sawayamaが「This Hell」で「この地獄を一緒に生き延びよう」と歌ったのとは対照的だが、そのどちらもが、少数者と手を取り共に生きていこうとするものであることは間違いない。
草野は、クィアにとってはまさしく地獄のような社会に確かにアライが存在することを、自らの語りによって証明しようとする。高らかに「己の物語をこれから始めよう」と歌う姿は、これまで人目から隠れるように生きてきたクィアにとっては胸のすくものだ。続くサビ終わりで草野は歌う。
暗示で刷り込まれてた 谷の向こう側へ
跳べ
スピッツ「跳べ」
■「誰かと出会う」喜びに満ちた「大好物」
応援歌だった「跳べ」とはまた変わり、Tr.3「大好物」ではクィア同士の強いつながりが描かれる。「大好物」は、映画「きのう何食べた?」の主題歌として書き下ろされた。「きのう何食べた?」はよしながふみによるBL作品で、主人公のゲイカップルたちの食生活や恋愛模様を中心に、彼らが抱える社会的な軋轢や家族との関わりについても描かれていく。そうしたトーンを汲み取った本曲もまた、やはりクィアの痛みや、その関わり方についても触れられている。
つまようじでつつくだけで 壊れちゃいそうな部屋から
連れ出してくれたのは冬の終わり
ワケもなく頑固すぎた ダルマにくすぐりいれて
笑顔の甘い味を はじめて知った
スピッツ「大好物」
ここでもやはり他者の存在が重要となる。ここでは代名詞が全く使われないが、「自分」という存在を、鬱屈とした心象風景から軽やかに引っぱり出す「誰か」が確かに存在している。そしてタイアップの内容を前提として踏まえれば、その「誰か」もまた、同じクィアであるはず。「くすぐり」というスキンシップがあることからも、二人はとても親密なつながりを得たことがわかる。そうしたつながりを得られたのは、やはり同じような痛みを経験し、共感できるからこそだろう。
その共感は、サビの「君の大好きな物なら 僕も多分明日には好き」というフレーズで、一気に双方向のものとなる。フレーズの通り、「君」の好きなものを、それを楽しむ時間を共にしたいという愛に溢れている。
そして「君の大好きな物」は、なにも食べ物や趣味ばかりではない。それは君の大好きな「僕」でもあるはずなのだ。「多分明日には好き」というひねくれたような留保も、かわいらしい照れ隠しでありながら、自己愛をゆっくりでも育もうという意思が現れているとも読める。他者との関わりによって、寒々しかった心の在りようが徐々に変化していくのだ。
続く「忘れられた絵の上で 新しいキャラたちと踊ろう」というフレーズも見逃せない。このままではいかようにも解釈可能だが、ラスサビの「取り戻したリズムで 新しいキャラたちと踊ろう」と対応させると、その意味が浮かび上がってくる。「忘れられた絵」が「取り戻したリズム」と同じならば、それは「僕」が失くしてしまった幸せや、その記憶とも取れる。
しかし「僕」は「君」と共に生きることで、その幸せを取り戻すことができた。サビ最後の「続いてく 色を変えながら」も、この関係の変化を受け入れつつも、末永く続いていくことを願うフレーズとなっている。「大好物」の詞は平易な筆致ながら、深みのある”クィアなラブソング”を奏でているのだ。
■「居ないことにされた」者たちのとなりで歌う「オバケのロックバンド」
Tr.6「オバケのロックバンド」でも、社会から透明化された存在が徐々に寄り集まっていくさまが詞によって描かれており、こちらもクィア的に読み解くことができる。
誰もが忘れてた 物置き小屋の奥から
退屈な膜を破り 転がり出てきたオバケ
スピッツ「オバケのロックバンド」
この曲では「オバケ」という比喩が「誰にも顧みられない存在」を表すものとして中心に置かれている。こうした妖怪を透明化された存在の比喩として使う姿勢は、先述した「跳べ」や「大好物」にも現れており、「ひみつスタジオ」において注目すべき点だ。
「オバケのロックバンド」はスピッツの結成を描くような自伝的歌詞となっているが、彼らの”社会からないものとして扱われてきた”経験は、クィアにとってはまさに自分ごとのように映って見える。そして彼らは、そうした経験を消し去ることなく丸ごと引き受けて、楽器をかき鳴らす。
サビで「子供のリアリティ 大人のファンタジー オバケのままで奏で続ける」とスピッツは歌う。誰もが持つ取りこぼされてきた体験は確かに、居ないことにされたオバケこそが物語ることができる。そうやって優しく奏でられるノイズは、これまでずっとわたしたちに届いてきた。
2番サビの「不思議なルールで 間違えながら」というフレーズにも注目したい。マジョリティ主体の、社会一般な規範からは逸脱し「間違い」とレッテルを貼られるような行為も、クィアのような少数者にとっては確かな特有の理路が存在することもある。
そうした行為を、否定された過去は消し去らないながらも、柔らかく掬い上げるようにスピッツは歌ってくれる。疎外されてきた存在のとなりで、「オバケのロックバンド」は共にあり続けてくれるのだ。
■「規範」に抵抗しながら生き延びる「Sandie」
Tr.10「Sandie」もまた、クィアのような少数者として、この社会にどうにか抵抗しながら生き延びていくさまを描いているように読める。
「初めて君に 出会ったときから 僕の心は桃のようなカタチのまんまだよ」と、草野の詞は「他者との出会い」を述懐する。続く「しがみついてた 枝を離れて 抜け道はすぐそばにあるって教えてくれたっけ」というフレーズで、「他者の存在」によってこれまでの居場所を抜け出すきっかけを得たことが分かる。
こうした「他者との関わり」はこれまでピックアップした楽曲でも度々描かれてきたが、注目したいのはその後のサビ。
違う世界があったから救われた
欲望や悔しささえ 手に入れたし
虎の威を借るトイソルジャーたちに
さよならして古ぼけた壁 どう壊そうかな
スピッツ「Sandie」
他者との関わりによって生き方が変化したことが描かれつつ、これまでの楽曲とは違い、「古ぼけた壁」を壊すという、反抗的なワードが使われていることが分かる。これまで自身の周りを囲っていた権威主義的な存在からは離れ、「壁」を壊すという抵抗の意思が現れているのだ。
ここでの「壁」はいろいろな取りようがある。確かに社会に存在する規範とも取れるし、あるいは心の内に内面化してしまった規範的意識とも取れる。”壁を壊す”という行為は、外に向かってアクションすることでもあるし、反対に自らの内面を変革することでもありうる。その両方を取りこぼすことなく、草野は歌う。
その前提から読めば、「洒落てる仮面も 投げ捨てたけれど ぎこちない顔日に晒して歌ってられるんです」というフレーズも、”壁を壊す”ことと地続きに読めるだろう。描写としては自身の持つ恥ずかしさと葛藤しながら歌う様子だが、これは内なる抵抗でありながら、他者と関わろうとするエナジーに満ちている。壁とは、その向こうにいる「誰か」と関わるために壊すべきなのだ。
ラスサビで草野は「しなやかでオリジナルなエナジーで 新宿によく似てる魔境 駆け抜けてく」と歌う。「ひみつスタジオ」で繰り返し歌われてきた「他者との関わり」が、こうして確かな生きるエナジーとなっていく様は痛快だ。新宿のようなごちゃついた魔境の中で、わたしたちは確かに生きている。そして生きることは、そのまま抵抗でもあるのだ。
「ひみつスタジオ」は、そこにいる「誰か」と出会う喜びに満ちたアルバムとなった。本稿では紹介しきれなかったが、「他者との別れ」を経験しながらも、その経験によって変化した自身を”可愛らしく”描くTr.5「さびしくなかった」や、くるまった布団の中からがむしゃらに未来を求めるTr.8「未来未来」など、一聴に値するナンバーが揃っている。未聴の方はぜひ聴いていただきたい。
本アルバムのラストナンバーであるTr.13「めぐりめぐって」に軽く触れて、本稿は締めさせていただきたい。Apple Musicのインタビューにて草野は、本曲について「ライブの1曲目にやる楽しい曲を意識して作った」と語っている。「めぐりめぐって」はラストナンバーでありながら、その先に続く生活を寿ぐファーストナンバーでもあるのだ。草野は歌う。
違う時に違う街で それぞれ生まれて
褒められてけなされて 笑ったし泣いたし
たまには同じ星見上げたりしたかもね
そして今めぐり逢えた
スピッツ「めぐりめぐって」
