『ゼルダの伝説』というゲームシリーズはタイトルに「ゼルダ」を冠しながら、これまで「ゼルダ姫」というキャラクターを深く語ろうとはしなかった。「知恵の巫女」という、トライフォースの一端を担っているキーパーソンでありながら、実際の役どころは「囚われの姫」でしかなく、プレイヤーであるリンクの行動理由としてしか機能しない。
「知恵」を象徴するキャラクター性が描かれるようになったのもごく最近のことで、例えば『ブレスオブザワイルド』では学者の資質を持つキャラクターとして描かれた。しかし続編の『ティアーズオブザキングダム』ではその特性が物語上で活かされることはなく、ゼルダが生来的に持つ「聖なる力」によって物語が解決してしまった。さらに言ってしまえば、前作の彼女の学者としての知恵は父親であるハイラル王からは煙たがられ、その成果もガノンによって利用されてしまい、むしろマイナスな効果しか生まなかったのも事実だ。
ゼルダの「知恵」とはあくまでキャラ付けでしかなく、これまで誰も、誰も彼女の「知恵」を必要とする者は一人としていなかったのだ。
しかし勇者であるリンクが囚われの身となったとき、彼女の「知恵」にはじめて光が当たる。それが『ゼルダの伝説 知恵のかりもの』である。
■「知恵」によるサバイブ

本作は、『ゼルダ』シリーズではお決まりの最終決戦から始まる。リンクが敵の根城へ単身乗り込み、囚われのゼルダを背景にガノンと戦う。お定まりのようにリンクが勝ったところで、ある異変が起こる。
ガノンが残した槍から空間の亀裂が飛び出し、リンクやダンジョンを飲み込んでしまうのだ。命からがらゼルダは逃げ出すが、亀裂はハイラル各地へと散発的に広がり、ついにはハイラル王さえ飲み込まれてしまう。ハイラルはただちに危機へと陥るが、そればかりではない。なんと亀裂の中から飲み込まれたはずのハイラル王が出てくるではないか。禍々しく赤い瞳を光らせ、偽の王は言う。「異変はゼルダの仕業だ。姫を捕らえ、殺せ」と。

ゲーム本編はゼルダがすべてを失った状態から始まる。地位も名誉も、家族も失い、生きる道すら絶たれてしまった。しかしそこに、ある光が現れる。彼女の知恵を照らす光だ。その名は「トリィ」。
トリィは各地の異変を消すためにやってきた精霊だが、彼の仲間が捕らえられているためにその手助けがほしいという。ゼルダは彼と協力関係を取り、「かりもの」という能力を手に入れる。その場にあるオブジェクトを「借り」、どこでも呼び出すことのできるその力は、すべてを失った彼女にとって唯一の寄す処だ。プレイヤーとゼルダはこの力を「知恵」によってやりくりし、文字通りサバイブしていく。

『ゼルダの伝説』は謎解きが主題のゲームでもあるが、何故かそこで必要とされる「知恵」はいつもリンクのもので、ゼルダにその役割が回ってくることはなかった。しかし本作のゼルダは、これまで以上に自由な発想で謎を「飛び越えて」いくことができる。
ゼルダはリンクの残したフードを被って身分を隠し、「オルタナティブな勇者」として各地の異変を消すための旅を始める…。
■偽物とかりものの戦い
異変を消すためダンジョンを進んでいくと、緑色の背中が見える。プレイヤーにとっては馴染み深い背中だ。しかしその背中は徐々に禍々しいオーラを湛え、こちらへと振り返って切先を向ける。そう、リンクの偽物も現れるのだ。リンクの偽物、というと往年のゼルダプレイヤーには「ダークリンク」が馴染み深いだろう。『時のオカリナ』で初登場したダークリンクは、こちらの動きや攻撃をトレースしてくる、いわば「完璧な偽物」だ。

『時のオカリナ』のリンクはダークリンクの持っていないアイテムによって攻撃の起点を作る、本物らしい攻略法を取っていた。しかし本作のゼルダは勇者の真似事をしている「偽物」で、同じ偽物でも”完璧な”偽物であるダークリンクには正攻法で勝てない。ここでもキーとなるのが「かりもの」の力だ。

「かりもの」はオブジェクトだけでなく、敵モブも”借りる”事ができる。これまで倒した敵の力を借りながら、なんとか泥臭くダークリンクにダメージを与えていく姿は、これまで見たことのない新鮮なものながら、どことなく「ゼルダ的」と思わせる。そしてダークリンクを倒すと、ゼルダはリンクの剣をも”借りる”ことができるようになるのだ。

これまでゼルダの攻撃手段は限られていたが、「エネルゲージ」というゲージを消費することによって、剣を使っての攻撃ができるようになる。往年のシリーズで言うところの魔法のような立ち位置で、MPを消費して直接攻撃ができるという格好だ。
剣を使う最中はゼルダの姿が変わり、おなじみの三角帽とベストという、リンクのコスチュームを着るようになる。攻撃時のセリフもリンクを意識したものとなっており、イミテーションを感じさせる。まさにリンクの「姿かたち」も借りて、勇者となろうとするのだ。
■違う道筋で、勇者になろうとすること
本作は直接的な救国譚だが、それがゼルダという立ち位置から、リンクとは違った形で行われるのも魅力の一つだ。

身分を隠すためにゼルダの被るフードは元々リンクのもので、そのため各地でリンクと間違えられることも多い。リンクと親交のあった人々との交流から、ゼルダは彼の姿を垣間見る。リンクは各地で人助けをしながら、これまで起こっていた異変を消すため陰ながらハイラルを守っていたという。草刈りから魔物の討伐まで、貴賤なく人助けをする彼はまさしく勇者だ。
リンクのフードを被ったゼルダも、彼と同じように人々を助けていく。しかし、リンクとは違ったやり方で。魔物に囲まれた村人を魔物で助けたり、塞がった道を、トリィの力を借りて開いたり。もちろん攻略法はプレイヤーによっても千差万別だろうが、そのどれもが元来の「勇者的な振る舞い」であるとは限らない。
「勇者になる」、ということは、決してリンクのように振る舞うことではない。もちろん利他的な精神性は軸にあるが、それはマッチョであれ、ということではないし、騎士のように振る舞えということでもない。ゼルダはそれまで自分がサバイブするために使ってきた力を、惜しみなく人助けのために使う。それこそがもう「勇者的」なのだ。
やっていることはどんどんリンク的なアクションからは離れていくのに、目指している目標が利他的であるからこそ、むしろリンクの姿に接近していく。それが本作の面白みであり、何より勇者というものを脱構築しているのではないか。
『時のオカリナ』に対して『ムジュラの仮面』があるように(『ムジュラ』はダークな印象が先行しがちだが、王国の存亡という舞台設定をなくした『ムジュラ』が「細々とした人助け」を集積したゲームになっている点はもっと語られるべきだろう)、『ゼルダの伝説』シリーズに対して『知恵のかりもの』は新しく「勇者」というものを捉え直し、その存在をひらいた作品と言える。
■かりものを返したら
「かりもの」という名前が示すように、ゼルダはあくまで力を借りているに過ぎない。そして借りたものは、いつか返す時が来る。
物語終盤においてリンクが復活すると、ゼルダはその剣をリンクへと返すことになる。つまり、ゼルダが行えるアクションが一定減るのである。これはゲームデザインの定石としてはやってはいけないことの筆頭だろう。終盤までプレイヤーが頑張って鍛えてきたスキルを、丸ごと奪うようなものだからだ。
しかし今回においては、減ったアクションを、ゲーム自体をこれまでと違ったパズルアクションにすることによって解決している。NPCとしてリンクがダンジョンに同行するのだ。リンクが戦闘に参加するのはもちろん、謎解きにおいてもキーパーソンとなる。


途中リンクとゼルダは別々の道筋をたどることになるが、ところどころで共通のパズルが設置されており、片方のアクションがもう片方の道筋に影響していく。上田文人の『ICO』やHazelight Studiosの『it takes two』を彷彿とさせるようなゲームデザインだ。
このようにかりものを返すことはゲームデザインとしては納得感のあるものとなっているが、ストーリーとしてはどうだろうか。ゼルダが剣を失うことは、そのまま彼女の能力を失うものでもあるのだろうか?
もちろん、ここまでプレイしたプレイヤーならよくわかっているはずだろう。ゼルダは直接的な「力」こそ失うものの、これまで培ってきた勇気や、知恵や、利他精神は――つまり「勇者性」は、失われるはずがないのだ。
これまでだってそうだった。ゼルダは自分の持てる力を使って、彼女なりのやり方でサバイブし、他者を手助けしてきた。それはかりもののあるなしに関係ない。あくまでそれは手段の一つであって、彼女の持つアイデンティティではないのだ。つまり剣を返すということは、彼女が一人の勇者として完成したことの裏返しなのである。

これまで語られることのなかったゼルダの知恵の物語を、ゼルダ自身が切り拓くことによって物語られた本作は、まさに「勇者」というものを再解釈する作品となった。ここでいう勇者は、ヒーローの添え物としての「ヒロイン」なんてちゃちなものではない。まさしく、ゼルダは「ヒーロー」となったのだ。
