その内側で鳴る音楽(たち)

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思春期の頃、いつもイヤホンを付けていた。楽しいとき、うれしいとき、そして嫌なことから逃げるとき。

イヤホンから発せられる音楽は、いつもわたしの意識を眼の前の現実からそらし、今ここではない空間を作り出してくれた。内耳から奥、頭蓋の中にそれはある。

その内的空間をわたしはあたらしいダンスフロアと呼んだ。理想的な環境で音だけが鳴っている。音だけが鳴っている、と書いたが、ここには音が鳴るための空気すらない。真っ暗で、その音で踊る身体イメージだけがある。音楽における諸要素――音階や和声、音色、テクスチャー、ADSR、ステレオ、定位――だけがその空間を定義している。

それはある種の自閉的な空間とも言えるだろう。わたしのような非社会的で非規範的な人間にとって、ヘッドホンは外界の音を排除し、意識を切り離す役割をもつ。しかしこうした自閉空間が発生するには、音楽を再生する装具としてのヘッドホンだけでなく、再生されている音楽それ自体にも要因があるはずだ。

トーキング・ヘッズのボーカルであるデヴィッド・バーンは著書『音楽のはたらき(野中モモ訳、イースト・プレス、2023年)』にて、音楽は演奏される場によってその性質を形成すると論じた。パンクバンドはうるさいパブで鳴るための音楽を演奏するし、オーケストラは静かなホールで聞くための音楽を演奏する。つまりは場こそが音楽を作り出すのだ。

そして録音音楽というジャンルも、それが再生されるスピーカーやヘッドホンの発明や、MP3やストリーミングの台頭などによってその音像を変化させてきた。その変化は多様だ。

すると翻って、録音音楽はある個別の空間を創造しうるということではないだろうか。演奏音楽は演奏される場に対して音楽を構築していくが、録音音楽は再生される場というものを選べず、あらかじめ想定された場に対して音楽を作る。それは録音されたスタジオの再現では決してないし、鳴らされた場に必ずしも沿うものでもない。その音楽が鳴らされた場において、なにか異(い)なる空間を作り出すのだ。そしてその場がスピーカーからヘッドホンに移り変わる時、その空間は身体の内側で発生する。

このテキストでは、わたしの自閉的感覚に大きな示唆をもたらした4つのアルバムを列挙し、それらを聴取した際に起きた、わたしの内的空間の変化を記述する。その空間で鳴る音楽は、現実空間ではありえない現象かもしれないが、確かにわたしの身体と呼応するものだ。この4枚には直接の関連性はないし、むしろ音楽性も遠くかけ離れている。しかし、だからこそこの4枚をわたしの直感を媒介に結びつけることによって、なにか関連性を見出すことはできるはずだ。

最後に、このテキストを読む際は、合わせて付随したリンクからこの4枚を試聴することをおすすめする。もちろん、ヘッドホンないしイヤホンをつけて。


C418/Minecraft – Volume Alpha (2011) 

土を踏みしめる感覚がある。分け入った草は朝露に濡れている。ふと地平線を見やると、眩しい光が飛び込んでくる。わたしは手を止め、ひとときの安らぎを得る。

『Minecraft』は2009年に発表されたサンドボックスゲームだ。

ゲーム中に明確なクリア目標はなく(それどころかチュートリアルさえない!)、プレイヤーはランダム生成された箱庭世界に放り出され、サバイバル生活を行っていく。

『Minecraft』世界でのルールは現実世界のそれを模倣したものだが、そのボクセルのルック通りに幾分かデフォルメされている。すると当然世界観に合わせるように、BGMもそれに応じたものになるはずだ。興味深いのは、それがチップチューン的な方向性を持たず、独自の空気感を湛えたアンビエント的な音像をもったことだ。

『Minecraft』のサウンドデザインはC418が担当している。C418はドイツ出身のコンポーザーで、TIGSourceというインディーゲームのフォーラム上にて『Minecraft』の開発者だったNotchと交流を持ち、同作のサウンド開発とトラックの作曲を行うことになったという(注1)。C418は影響を受けた音楽家にAphex TwinやClark、Machinedrumを挙げており、たしかに彼らのエッセンスや哲学を随所に感じ取ることができる。

本作でのC418のサウンドは、静謐で郷愁的だ。それはデジタルな暖かみと言い換えてもいい。C418は宅録や打ち込みのデッドで部屋鳴りっぽいサウンドに対して、抑制的に空間系のエフェクトを加えている。それはリッチな音響効果からは離れた、むしろローファイな印象を聴者に与える。ピアノやカリンバといった、アタックの強い楽器を散りばめるように鳴らしていく楽曲構造とも相性がいい。輪郭が水彩画のように揺らいでいくようなサウンドは、そのロービットさも相まって独自の郷愁を聴者にもたらす。そしてその印象は、ゲーム体験と深く結びついていく。

普段のゲームプレイにおいてBGMが流れることは少ない。ゲーム内の日の出・正午・日の入り・真夜中の決まった時間にランダムにBGMが流れるのみだ。しかしそれだけに、各曲はプレイヤーの体験と強く結びつく。

洞窟の奥深くを彷徨っているとき、家畜に餌をやっているとき、今まさに大海へ漕ぎ出さんとするとき、あるいは部屋で荷物の整理をしているとき。共通するのはC418の郷愁的なサウンドと孤独だ。

わたしにとって『Minecraft』は孤独なゲームだ。今日ではマルチプレイモードやYoutubeの実況動画などによって「明るく楽しいゲーム」という印象が強まったが、実際にプレイしてみる事によってそうした印象は少なからず後退するのではないだろうか。

基本がソロプレイのゲームなのはもちろん、先述したようにゲーム側から提示される目標というものがまるでない。プレイヤーは能動的に目的を作り、遊び方を発見しなければならない。それはマルチプレイにおいても同じで、何をしているときにもある種の寂しさがプレイヤーの影について回る。それはどこまでも自由でありながら孤独な遊びだ。C418のサウンドトラックはその孤独な実践に深みをもたらし、強く印象付ける。

『Minecraft – Volume Alpha』を改めてアルバムとして聴く時、まず最初に思い浮かぶ情景はスポーンしたときの野原だ。足元の草のくすぐったさや、木材ブロックのささくれ立った触り心地。ゲームをプレイしていたとき、確かに感じていたテクスチャーが思い起こされる。それは今ここにない、しかし確かに体感した空間への郷愁だろう。

そうした愛すべき孤独を懐かしむ音楽は、自閉的空間で鳴るにふさわしいものだ。わたしはうすぐらい部屋の隅でひとり、ただそれらに耳を傾ける。

Porter Robinson/Nurture (2021)

遠くでさざめきがきこえる。それは初夏のそよ風のように、午後の木漏れ日のように、穏やかな波間のように輝いている。わたしは目を閉じ、耳を澄ませる。

『Nurture』はEDMプロデューサーのPorter Robinsonが2021年に発表した2ndフルアルバムだ。

前作『Worlds』から7年ぶりとなった本作は、自身の長いスランプやトラウマからの回復をテーマに制作されたという。シグネチャーサウンドとなっていた、ビットクラッシュされたピッチの高いボーカルをある程度引き継ぎつつも、EDM的マナーからはやや離れた豊かなポップスが展開されている。

『Nurture』についてまず最初に語るべきなのは、穏やかながらも強い存在感を持つピアノだろう。Porterは初期の構想時から、高木正勝の『おおかみこどもの雨と雪』サウンドトラックに強い影響を受けたという(注2)。Tr.3の「Wind Tempos」では高木宅で行ったセッションをサンプリングするなど、コラボレーションも果たしている。しかしアプローチとの相違点として、あくまで演奏を録音している高木と、その録音をエディットするPorterの違いは興味深いところだろう。

本作において重要な役割を果たしているピアノだが、完全な生音として聴者の耳に届くことはほぼ無い(そもそも録音音楽において「生音」というもの自体存在しないが)。要所要所でビットクラッシュがかけられていたり、カットアップがなされるなど、あくまでひとつの波形データとして扱うアプローチが取られている。そこではピアノの澄んだ音色は減衰し、すこしひび割れたり、分裂したような印象を受ける。それでも高木の自然主義的な空気感を『Nurture』にも感じ取れる要因には、あるサウンドの存在が重要と言える。

それこそが、随所で静かに鳴るヒスノイズの存在だ。

Tr.1の「Lifelike」のイントロからそれは鳴っている。思わずヘッドホンの故障を疑ってしまうようなそのノイズは、すぐにサイドチェインをかけられリズムを統率する役割を果たす。ここではヒスノイズがパーカッションや音響効果として機能しているのだ。そしてその質感に合わせるように、各セクションにもビットクラッシュがかけられたり、中高音域にフォーカスが当たるようなEQ処理がなされている。このヒスノイズこそが『Nurture』の表現の軸を担っていることは言うまでもない。

ヒスノイズがどのような効果を聴者にもたらしているかは、CINRAでの長谷川白紙とPorterとのメールインタビュー(注3)の一節を引いたほうが早いだろう。

長谷川の言うように、まさにヒスノイズのさざめきがアルバムアートワークのような草むらを連想させるのだ。そしてそれはアウター・ワールドの自然ではなく、自己を回復させるインナースペースとしての理想郷だ。ちょうどWindows XPの「草原」の壁紙のような。低ビットレートのMP3の、耳に痛いシャリシャリとしたノイズや、JPEGのブロックノイズ、ディスプレイのモアレに慣れきったわたしたちには、それこそが「自然な風景」と言える。

その「自然」に共通する経験はノイズだけでなく、無効化された距離だ。ヘッドホンから鳴るMP3は現実空間のような減衰や反響を持たず、RGBディスプレイは自ら発光する。それらは距離という概念から解き放たれ、直接的にわたしの感覚器官に届く。わたしの身体の内側で像を結ぶ「自然」は、いつまでも無機的に輝いている。

その理想郷は不特定多数の誰かと繋がるためのものではなく、スタンドアロンでひたすら自己と向き合うためのものだ。ヒスノイズを注意深く聞き取るためのヘッドホンは、その内省を聴者にももたらす。このアルバムはそのままフロアでかけられるようなダンスミュージックではない。もっと閉じた空間で、ひとり静かに聴くものなのだ。

Jerskin Fendrix/Poor Things(Original Motion Picture Soundtrack) (2023)

誰かの足音がする。それはゾンビのようにたどたどしく、軽やかなステップを踏んでいる。わたしはそれに合わせ、ひとり踊ってみる。

『哀れなるものたち(原題:Poor Things)』は2023年に公開されたSFコメディ映画。アラスター・グレイの同名小説をベースに、ヨルゴス・ランティモスが監督、主演をエマ・ストーンが務める。

本作の舞台はヴィクトリア朝のロンドン。ゴッドウィン・バクスター(ゴッド)と呼ばれる天才医師が、一体の美しい溺死体を見つける。溺死体は妊娠しており、その胎児は生きていた。ゴッドは胎児の脳を溺死体に移植し、「ベラ」と名付け、観察記録をつけることにする…。

気鋭の音楽家Jerskin Fendrixが手掛けた本作のサウンドトラックは、そのシナリオに負けず劣らず実に奇妙だ。どこか静謐でありながら、聴者の耳元近くで暴れるような強迫的なサウンド。難解なハーモニーとピッチをぐにゃりと曲げる弦楽器や管楽器。まどろむように入り組んだリズム。それらは聴者に確かな手触りをもたらしながら、次の瞬間指の間からするするとほどけていく。

劇伴は通常、視聴者の気持ちやテンションを盛り上げるためにつけられるものだが、本作のサウンドトラックはまるで視聴者の心の動きをかき乱すようだ。一体どういう作用を期待して、この劇伴は作られたのだろうか。それを説明するには、主人公である「ベラ」の存在が不可欠だ。

先述したようにベラは胎児の脳を移植された成人の溺死体だ。発達した身体を持っていながら時間的な経験が皆無で、まるで立って歩くことを覚えた赤ん坊同然だ。しかしそれは、タブラ・ラサと言われるような状態からは遠くかけ離れている。

物語序盤、ベラはゴッドの家に半ば軟禁される形で観察されるが、それでもベラの受ける体験は鮮烈なまでに鮮やかだ。自らの排泄する尿に笑い、嬉々として皿を割り、躊躇なく人を殴る。発達した身体を持ちながら、その内側も外側も混乱に渦巻いているように感じられる。それが嬉しくてしょうがないのだ。その混乱した環世界を、本作のサウンドトラックは映し出す。

聴者はいわばベラの環世界を、サウンドスケープという直感的なかたちで追体験することになる。ベラを抑圧するような存在のテーマは重苦しく、ベラを開放するような経験のテーマは軽やかに。キンキンとした高音と強迫的な低音はベラの身体経験と呼応する。奇妙なサウンドはベラが感じている世界そのものだったのだ。

物語中盤、ベラは外界に出て、その知性を急速に発達させる。それは世界へのピントを合わせていくような作業であり、自己を見つめ直し内省していく旅だ。それに伴って劇伴にも情感というものが感じ取られるようになる。ベラが共感可能な人物として成長していくのだ。成長というワードは物語の重要なフックとなり、観客にも強く印象づけられる。

しかし、本作を観終わったあと改めてサウンドトラックを聴いてみると、わたしはそこで成長とは別の変化を得ることになる。

わたしは、自身の内にベラの環世界を見出した。それまで「普通」に見えていた世界が、丸っきり奇妙で、混乱に満ち満ちていることを発見するのだ。管楽器のアーティキュレーションの僅かな加減が、目の前の景色を歪ませる。それまで音楽が自身の内側にのみ作用するものだと思っていたわたしにとって、この体験はコペルニクス的転回とも言える発見だった。たしかに、音が身体に作用するならば、その身体から感じられる世界というものにも同様に作用されるはずなのだ。これは一般に言われるような「成長」や「収斂」というものとは真逆の変化だ。むしろ退行し、発散することが要求される。そしてそれは、少なくともわたしにとって好ましい変化だった。

そうした共振とも言うべき経験は、たしかにヘッドホンで本作を聴取したからこそ起きたものだ。それは今まで感じた郷愁や内省とは全く別のものだ。本作の最後で鳴るメインテーマの壮大なオーケストレーションは、別れの言葉であり祝福だ。それはベラの今までの体験を総括し、新たな門出を祝うものである。そしてそれは同様に、聴者であるわたしの新たな誕生をも、祝福しているのだ。

長谷川白紙/魔法学校 (2024)

たくさんの声がする。わたしはその声たちの叫びに耳を傾ける。その声たちはしかし、間違いなくわたしの内から鳴り響いていた。

『魔法学校』は長谷川白紙が2024年に発表した2ndフルアルバムだ。

前作『エアにに』から4年半、弾き語りでのカバーアルバム『夢の骨が襲いかかる!』や長久允監督作のテレビドラマ『オレは死んじまったゼ!』の劇伴などを手掛けた長谷川白紙の最新作は、Flying Lotasの主宰するレーベルBrainfeederよりリリースされた。前作から見られた特徴であるブレイクコアや南米音楽からの影響はもちろん、『夢の骨が襲いかかる!』で見られたボーカリストとしての実践や、直近作で使われていたボイスサンプルの重用など、今までの総決算的な作品でありながら、これまでになく実験意欲に溢れた作品と言えるだろう。前作からの諸要素をまとめ上げているのは、むしろそれまでの問題意識をより深化させた結果とも考えられる。

多くの語り代がある本作ではあるが、本テキストでは主に「声」と「分裂」に焦点を当てていきたい。

こと人間の聴覚において声というのは最もプライオリティの高い情報だ。そしてそれ故にその「声」はあらゆる方向の視座――ジェンダー、年齢、コンディション、感情、生物学的分類――からジャッジされる。しかし、そのジャッジというのは果たして自明なものだろうか?

本作では多くの「声」が至るところに配置されている。その声はほぼ全て、長谷川が自身の声を収録したボイスサンプルであるという。しかしその声は一様ではなく、多様な「奏法」をもって演奏されていたり、ポストプロダクションによってその形を大きく歪められている。

Tr.6「恐怖の星」は、その「声」たちが最もアブストラクトな方向でフィーチャーされている一例と言えるだろう。「声」はフォルマントやピッチを激しく変化させるだけでなく、可聴域を大きく逸脱させたり、グラニュラーのようなエフェクトをかけられるなど、まるでどこまで「声」を肉声として認識できるか、聴者に負荷実験を行っているかのようだ。こうした実践において、その「声」の所在――つまり声を発している「誰か」――は撹乱され、あるいはその身体を分裂させられている。楽曲全体も、その分裂や発散という印象を強化するかのように、破壊的でダンサブルなビートを刻んでいる。

あるいはTr.4「撤回」ではその「声」たちは、分裂というよりむしろ調和する方向で結実している。「恐怖の星」のボイスサンプルを散りばめる手法や多様な「声」の奏法はそのままに、先述した『夢の骨が襲いかかる!』での実践を深化させている。ここではコーラスは楽曲の軸となり、その構造を強く支えている。伸びやかな「声」は楽曲の上に乗るものではなく、むしろ「声」こそが楽曲の支持体となっているのだ。

このアルバムでは各曲が、こうした発散と調和のパラメータに対して、どのバランスの状態があり得るのかを実験しているかのように構成されている。いや、そもそもこのアルバム自体が分裂的と言えるかもしれない。リニアな時間芸術的マナーに則りながらも、むしろ全く違うジャンルの楽曲群をアルバムという枷に落とし込むことによって、一つの作品として成立させているのだ。各曲はそれぞれ個別の像を結び、それらが重なり合うことによってその輪郭を撹乱させる。

そして本作の聴取体験として特に重要だと思える事柄が、先行リリースされたシングルカットの存在だ。『魔法学校』がリリースされる以前、シングルカットとして先行リリースされてきた楽曲群が存在する。そしてそれらは、本作が正式にリリースされる前から、EPとしてまとめられていたのだ。『魔法学校』を今か今かと待ちわびていたわたしは、そのシングルカットを何回も聞き直したものだ。そしてここで重要なことだが、そのシングルは発表された順にまとめられており、今の曲順とは異なっていたのだ。各シングルがリリースされる毎に、それらをひとつずつ聴き集める経験があったのは間違いない。そしてその経験で架構的に結ばれた『魔法学校』という像は、本編を一聴したあとのそれとは全く異なるものだった。それは各シングルが個々のシグネチャーとも言うべき確固とした個別性を持っていたからこそだ。あえて陳腐なクリシェを引いてみるならば、「まるで万華鏡をくるくると回してみるように」、各曲の印象はその配置によって大きく変わる。こうしたリリースにおける戦略においても、本作に対するイメージを撹乱させる試みがあるとも解釈できる。

そうした「声」や楽曲を聴取することによって作られた像に対する一つの回答が、Tr.10「ボーイズ・テクスチャー」だ。

この曲は、「声」による、クランクやトラップのような現代ヒップホップ的マナーをもとにしたアドリブと、西田修大による叙情的なギターとの接着が印象的だ。ここでの「声」の作用は分裂的でもありながら、曲全体のリズム解釈に補助線を引き直すような、調和的な役割も担っている。その渦中を通り抜ける薄葉紙のようなメロディと、それをトーナルに折りたたむオートチューンによって、長谷川のボーカルは白く透き通ったオブジェを喚起させる。しかし、ここでより重要になるのは、その素直なメロディに乗せてはっきりと歌われる言葉たちだ。

この「ボーイズ・テクスチャ―」の歌詞は、ひどく個人的な経験を書き出したもののように読める。その経験の主体であるだろう「男の子(Boy)」に対して、聴者はそれまでと同じように、何かストーリーを解釈=ジャッジしようと試みるかもしれない。しかし、それを始めようとした途端、伴奏は鳴りを潜め、ある言葉が聴者の耳を捉える。

”愚かだ 

あなたは暑いときに読み間違う”

この「あなた」は決して聴者を標的としたものではない。しかし、そこに続く「読み間違い」に対する告発は、たしかに聴者の耳を捉えて離さないのだ。そう、この告発は、聴者によって行われる可能性のあるジャッジをすべからく誤読とする。今まで『魔法学校』の聴取において結ばれてきた像というのはすべて、虚像に過ぎなかったのだ。

続いて、伴奏が一気に強いダイナミズムを作り出す中、訥々と「声」は歌う。”逆立ちをしろ”。”読み間違いを記せ”。

誤読は通常、消し去られるべきもののはずだ。しかし「声」はそれを「記せ」という。誤読を否定することはせず、むしろそれを残せというのだ。こうした倒錯にこそ『魔法学校』のもつ引力がある。誤読=虚像を参照可能なものにすることには、一体どんな意味があるのか。

長谷川はこれまで『魔法学校』において、分裂と調和とも言うべき手法によってその像を撹乱させてきた。そして聴者の中に生まれ、『魔法学校』というアルバムから写し出された虚像もまた、長谷川白紙というアーティストの像を撹乱するものなのだ。そうして分裂した幾多もの虚像は、真実や本質といったイデアのもつ神話性を嘲笑する。今やこの場において本物と偽物を区別する手段はないし、それがあったとしても本物に特別な価値などないのだ。

もちろんこうした「解釈」もまた、結局は虚像に過ぎない。しかしそれの、なんだというのか!

その撹乱はわたしにとって雷に打たれるような経験だった。作品に対する共振が全くの偽りであり、また真でもあるという体験は、ひどくわたしの身体に、内的空間に馴染むものだった。そうだ、それこそがわたしのクィアネスだったのだ。

そして『魔法学校』は実質的なエンドトラックであるTr.11「焱ばみ」によって、その体験にピリオドを打つ。長谷川は過剰に――キャンピーに――加工された「声」で最後に告げる。

(そして、笑い声が短く響く。)


さて、ようやく本作のエンドロールとなる楽曲「外」について語ることができる。この楽曲の主な軸となるのはやはり、幻想的なリバーブのかかったピアノと、「声」たちによるクワイアだ。

楽曲を駆動させるギャロップのようなピアノの伴奏は、強いリバーブによって、仮想的で飽和するような空間を現出させる。確かに開放感はあるが、リバーブがかかるということは、その空間には音を反射する「壁」が存在するということだ。

それに対して「声」たちのクワイアは、それぞれが気ままに吹き抜ける風のように、「外」への素直で鮮烈なあこがれを歌っていく。それらは調和する一つの思いを持っているようで、しかしその思いを爆発させるように、それぞれのやり方で発散させている。そう、その発散こそがここでは重要だ。音声というのは内から外に発されるものだ。そのエネルギーの流れは、それ自体が「外」への憧憬を持っている。その憧憬は、これまでも確かにわたしたちが聴いてきたものだ。単純なことだった。『魔法学校』における「声」たちはずっとずっと、外へ外へと出たがっていた。

「声」たちはその勢いを増し、聴者を誘うようにスタジアム・ロックもかくやというスケールに拡大・増幅していく。そうだ、わたしたちはずっと外へ出たかった。

ひとしきり歌い終わったあと、「声」たちはそのエネルギーを発散しきり、離散していく。最後に残ったリードボーカルは歌う。「外はとても広くて大好きだ」そして照明が落ちるように、ピアノのリバーブはシュリンクしていき、完全にデッドになる。

無音。

わたしは呆然としたまま、着けていたヘッドホンの重みを知覚する。

そう、ここは未だ、完全な「外」ではなかったのだ。ここは結局のところわたしの自閉空間でしかない。未だにわたしは、「外」へ出られていない。

重たかったヘッドホンを外して、わたしは深く息を吸う。

しかしどうだろうか。一時とはいえ、わたしの自閉空間には確かに「外」があった。そこには依然として壁や天井があるが、窮屈なものではなく、むしろ風さえ吹いていたように思える。

思えば今まで音楽を聴いていたのも、それによって発生しうる「今ここではない空間」への逃避を求めていたからだ。その一つの結晶体が、これまで聴いてきた作品群であり、「外」という楽曲であり『魔法学校』ではないのか。

「外」を聴き終わった際に持った、一種の虚脱感とも言うべき感情はそれこそが「外」へのキーなのだ。「外」というものの不在によって、わたしははじめて外に対する渇望を認知するのだ。

これまで再三唱えられた「外」は決して外世界のみを指すものではない。二元的規範、家父長制、トラウマ、過去・未来・現在、なんでもいい、今ここにあるしがらみすべて、それらから脱出した先の空間すべてだ。その先には新たな壁や天井があるかもしれない。あるいはまるっきりただの檻かもしれない。しかしその出口を求め続ける心の動きこそが、その扉を「外」へとつなげる手がかりなのだ。

わたしはやはり外に出たい。だって外は、色が変わって、とても広いのだから。